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大坂城(大阪市中央区) [城]

豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に築いたのが、大坂城である。
いまさら言わなくてもわかるって。

天下の巨城も大坂の陣にて落城し、その後幕府の直轄地となり、
天下普請で豊臣大坂城に盛土し、新たに石垣を築いたのが現在の大坂城である。

昭和6年に建造された天守閣は、当時としては最新技術であったコンクリート建築で、
徳川期大坂城の天守台に豊臣期風天守閣が建てられた。
豊臣期の遺構は地中にしかなく、公園内の地表には徳川期の遺構だけで、
太閤さんのお城と親しまれているのは、ちょっと微妙な感じである。

もう3年も前になるが、帰省する際に新大阪で降りて、大坂城へ行った。
大阪には遊びでは行った事がなく、この大坂城がはじめての観光であった。
JR環状線大坂城公園駅で降り、大坂城ホールの脇を通って、大坂城へ向う。
このルートで行くと、青屋門の枡形が出てくるのだが、まず目に入るのは東外堀の大迫力の石垣である。

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青屋門の第一の門跡。
門に向って登り坂になっており、規模、形態といい最終形と言える。
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二の門である櫓門。
大阪大空襲で被害にあったが、昭和45年に残材を使って、復元された。
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本丸の石垣を見ながら、南下するように歩く。
しばらく歩くと、一番櫓と呼ばれる二重櫓が現れる。
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南外堀には、一番~七番までの櫓が建ち並んでいたが、現存するのは2基のみ。
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もう1基の六番櫓。
1628年に創建された櫓である。

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大手門の二の門である櫓門。

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大手門一の門の高麗門。
1620年の創建で、1783年に落雷で破損し、1848年に大修築されたもの。
この門の控柱の継ぎ手が面白い。
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手前がアリ継ぎ手で、横が山型となっており、一見どうやって連結しているのかわからない。
前に唐招提寺の修築の番組で伝統継ぎ手の特集を見たんで、このトリックは知っているのだが、
この箇所にここまで凝る必要があるのか?と疑問になりそうだが、
そこが大工の粋であり、ツッこむのは野暮ってことでしょうな。

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大手門と連なる千貫櫓。1620年の創建。
名前の由来は、織田信長が本願寺攻めの際になかなか落とせない櫓に対して、
「あの櫓を落とせるなら、千貫文与えても惜しくない」と言われるエピソードからだが、
大手門に殺到する敵に横矢を与える位置のこの櫓に、そのエピソードを当てはめたのだろう。

残念なことに西の丸が休園で入れなかったので、本丸へ向う。

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本丸の入口である桜門。
明治になって、陸軍によって建てられたもの。
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本丸の南側は空堀となっている。
こんなに広大な空堀は見たことない。
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池田忠雄が運んだと伝わる、城内最大の石。

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天守閣前に現存する金蔵。
海鼠塀寄棟の土蔵造り。
結構面白い物件なのだが、如何せん天守閣の前の為、ほとんどがスルーだ。

昭和6年に建てられた、ランドマークの天守閣。
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豊臣期の天守を目指して建てられたという天守だが、最上階のみ豊臣風で、ほとんど徳川風の造形である。
とは言え、これはこれでなかなかの完成度だと思う。
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何かと否定的な意見を言われがちなコンクリ天守だが、ここ大坂城のように親しまれ、
ランドマーク的な存在なら、そんな事は問題ないようだ。
作りっぱなしや、時代検証が無い、あまりにデタラメな造形なものは論外だが、地域の方々に親しまれているかが最大のポイントだろう。
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神戸城(三重県鈴鹿市) [城]

三重県鈴鹿市にある神戸城。
天文年間に神戸氏が築城し、神戸氏に養子として入った織田信長の三男信孝が大改修し、五重の天守閣を築いたという。
信孝が、信雄に攻められて自刃した後は、城主は次々に変わり、1732年に本多家が入国して明治を迎えた。
金箔瓦を持った五重の天守閣は、1595年に桑名城に移築され、以降は天守閣は建てられなかった。

現在は、本丸の一部と水堀が残っており、公園として整備されている。
公園の駐車場を探すが、入口がわからず、周辺をグルグル回ったあげく、
近くのお店の駐車場に停めさせてもらった。

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一部が残っている本丸の水堀。
堀の幅はかなり狭くなっている。
公園としては程よいのだが、城としては悲しいくらい意味が無さなそう。

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本丸の野面積みの石垣。

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天守台。こちらも野面積み。
天守台の石垣は、様になるね~。
ここに五重の天守閣が建っていた。
天守台に上ってみる。
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天守台への石段の踊場。
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本丸を囲む土塁。結構しっかりと残っている。

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本多神社の石碑と狛犬。
昔は、小さい社殿なり祠なりがあったのだろうか。

公園から車で10分くらいのところにある蓮花寺に二の丸太鼓櫓が移築されてるので、そちらにも向った。
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櫓は、寺に着くとすぐに出迎えてくれる。
最近修築したのか、結構キレイだ。
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江戸後期の建物と言われ、現在は鐘楼として使われている。

大手門も移築現存しているとのことだが、時間の関係で今回はパスした。

神戸城跡


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春日山城(新潟県上越市) [城]

上杉謙信の本拠地が、言わずと知れた春日山城である。
平時は山麓の居館で、有事の際のみ活用される山城が多いが、謙信時代の春日山城は居館としても機能していた。
また、春日山城の特徴として、決して広くない曲輪が多く存在している。
これは少数の兵でも守れるようにしているためである。
遠征が多く、春日山を空けることが多かった為、このような縄張りが出来上がっていったのだろう。

そんな春日山城を、春日山神社側(搦手)から見て行くこととする。
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城の入口の土産屋の前に佇む謙信像。
凛々しいぞ。
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謙信像から歩いてすぐに、小山に上がる脇道と分岐する。
その脇道は、直江曲輪(直江屋敷)の一段下に位置する帯郭である。
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帯郭の外側の堀切。
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直江屋敷への道は屈曲しており、横矢をかける。
登っていくと、平地が見えてくる。
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直江曲輪(直江屋敷跡)である。
上杉家の重臣直江家の屋敷跡で、直江景綱・信綱が住み、その後直江家を継いだ兼続が住んでいたと伝わる。
後に秀吉から米沢30万石を与えられた者の屋敷跡としては、かなり手狭だ。
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直江屋敷跡より一段上の曲輪は、お花畑と呼ばれる。
ここは、毘沙門堂をはじめ、各堂に供える花や薬草を植えたところらしい。
今は何の色気もないが、花草を植えて花畑らしく整備すれば、さぞかし綺麗な光景になると思う。何も建物ばかりが復元整備ではないと思うよ。
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お花畑よりさらに一段上にある曲輪に建つ毘沙門堂。
謙信が篭った毘沙門堂の跡地とされるところで、現在の堂は昭和6年に建てられたもの。
中の毘沙門天像は、謙信が信仰していた尊像を修理した高村光雲が、その像の御分身として造られたもの。

さらに進むと、本丸がある。
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ここと南隣の郭は、「お天上」と呼ばれた場所で、直江津や日本海の一望できる。

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南側の郭。
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南の郭には、天守閣跡という石碑が建っているが、天守閣があったかは疑わしい。
櫓ぐらいは建っていただろうけど。
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本丸の西側の一段下に井戸郭がある。
お花畑から本丸そしてこの井戸郭一帯は、実城と呼ばれたエリアで、御館の乱では、ここを抑えた景勝が勝利し、謙信の後継者となった。
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井戸郭の南側にある、鐘楼跡。
鐘楼跡から南東へ進むと、景勝屋敷跡がある。
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細長い郭だ(w
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柿崎和泉守屋敷。
おそらく一番広い郭。
この辺りは草が激しく、ここから先には行かなかった。と言うより、行けなかった。
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本丸方面に戻る。
本丸下の二の丸跡。本丸の帯郭といった広さかな。
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米蔵跡地を囲むように残っている土塁。
現存する土塁では、一番良好に残っている。
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米蔵跡と並んで、景虎屋敷跡がある。
この辺り一帯が、三の丸。
景虎は北条氏康の六男で、人質として春日山に着たが、謙信に気に入られて養子となった。謙信の死後は、同じく養子で甥の景勝と上杉家の継承者の座を争ったが、敗れて自害した。
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三の丸から下る道。
左に進んでいくと、土産屋に戻る。
多くの郭があって大きな山城であるが、道が整備されていて探索し易い。
各郭にある説明板に、景勝、景虎、兼続などの名が出てくると、それだけでも楽しくなる。
ま、各屋敷跡が、説明板通りなのかは疑わしいですけど。

春日山城址


タグ: 上杉謙信
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監物堀(新潟県上越市) [城]

上杉謙信の居城春日山城に向う途中に、
「春日山城跡ものがたり館」という資料館がある。
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この資料館は、春日山城古絵図や川中島合戦図屏風が展示されており、
その他に春日山城の歴史ビデオも流されているので、
春日山城を訪れる前に、ちょっと立ち寄りたい。無料だし。

そのものがたり館の前が、春日山城史跡広場となっており、監物堀や土塁が整備復元されている。
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この堀は、上杉時代に造られたものではなく、上杉景勝が会津に移封後に春日山城に入った、
堀秀治が築いたものである。

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監物堀から東城砦(奥にある小山)を見たところ。
この監物堀や東城砦は、春日山城を近世城郭として機能を山麓に移す際に、構築されたものと考えられる。
政治・経済の中心として城下を拡張させるには、春日山城のような山城では不適であり、
結局、直江津付近に福島城が築城され、春日山城は廃城となった。
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土塁の幅は結構広い。

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広場から見た東城砦。なかなかいい雰囲気だ。
東城砦に向ってみる。

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東城砦は2つの郭から構成されており、その低い側の郭に掘立柱建物が復元されている。
春日山城の建物は、大半がこのような掘立柱建物で、この郭で柱を建てる穴が発掘されたので、
その穴の通りのサイズで復元された。
高い位置の郭は、現在墓地となっている。
東城砦の北側(広場と反対側)は、池となっている。(画像は撮り忘れてました)

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東城砦の東側は、薬研堀となっている。
この薬研堀こそ、ここの最大の見所だろう。

この辺りの史跡の説明は、どうも上杉一辺倒になりがちだが、もっと堀秀治の実績も説明すべきだと思う。


上越市 春日山城跡ものがたり館


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伏見桃山城(京都市伏見区) [城]

伏見桃山城....
戦国期に実在した城ではない。
豊臣秀吉が築いた伏見城の徳善丸辺りに、昭和39年に伏見桃山城キャッスルランドが開園した。
そのランドマーク的な建物が伏見桃山城である。
一時は年間100万人の入場者があったが、入場者が年々減少していき、惜しまれつつも2003年に閉園した。
多くの遊具は撤去されたが、桃山城は市民の要望もあり、残されることになった。
そんな伏見桃山城を見に行った。

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キャッスルランドの跡地は、伏見桃山城運動公園となっている。

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キャッスルランドの城門風の旧ゲート。
遠くから見るとなかなかカッコいい櫓門だが、近づくと切符売り場等が、遊園地であったことを物語る。

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5重の大天守と3重の小天守の連結式天守群。
古式の大型望楼型天守閣で、これがなかなかデザインがいい。
実際の伏見城の姿は資料が少ないのでわからないが、建立当時のイメージはよく表現できているのではないかと思う。

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虎口型の石垣と、奥に見える城門風の天守入場口。

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小天守と大天守と連結している多聞櫓。

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入場口の横を進んで、天守を見上げてみる。

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ぐるっと回って、天守群を見る。
2003年に閉園してから、しばらく立ち入り禁止だったが、2007年に公開されるようになった。
訪問したのは公開して間もなくだったのだが、それから2ヵ月後には、
映画「茶々・天涯の貴妃」の撮影で大阪城として使用される為に、かなり化粧直しされたとのこと。
その後、正月ドラマの「寧々・おんな太閤記」でも大坂城として使われた。
確かに、秀吉時代の大阪城に似てるかもね。

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伏見城の本丸は、明治天皇の桃山陵となっているため、立ち入りができない。
桓武天皇柏原陵と明治天皇桃山陵の間にある治部池。
伏見城の内堀であると言われている。

伏見桃山城


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大垣城(岐阜県大垣市) [城]

大垣城
戦国期に美濃斉藤氏の支城であったが、織田家に美濃が平定されると、織田の配下となる。
その後は、秀吉により、一柳氏、伊藤氏が城主となった。
北の中山道、南の東海道と交通の要所であり、関ヶ原の合戦時には西軍の本陣ともなった。
関ヶ原の本戦後は東軍に攻められ、3日の籠城後に落城した。
関ヶ原の合戦後は、石川康通が入城し、松平家、岡部家と続き、1635年に戸田氏鉄が10万石で入り、幕末まで戸田氏が続いた。
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案内板にあった縄張り図。
揖斐川の氾濫による湿地帯を利用して造られた平城で、幾つもの水堀で囲まれているのが特徴。
現在は、堀は埋め立てられ、本丸を残し周辺は市街地化し、堀の要塞の面影はこれっぽちもない。
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現在の大垣城公園の正面入口にある櫓門。
旧柳口門を移築したもの。
内側から見た櫓門。
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櫓門の右側に復元されている艮(うしとら)隅櫓。
二重二階の櫓で、L字に多門を併設している。
左側の多門は先手武具多門。
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櫓門から入って、左側にある武徳殿(武道場)。
戦前に立てられたっぽい、御殿風の建物。
こういう味のある道場で、練習すると気持ちいいだろうな。
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昭和34年に外観復元された天守閣。
四重四階という珍しい天守。四は死と音するので、武士からは避けられていたのだ。
天守閣は戦前まで現存しており、昭和8年には国宝指定を受けたが、アメリカの無差別爆撃により焼失。
木々が邪魔で、全体をうまく撮影できないのが残念だ。
公園化している城址に木を植えて緑地化することは大いに賛成だが、見せることを意識した管理も必要だと思うよ。
本来の天守周辺には避雷針代わりとなる松が植えられることが多いが、あくまで1,2本で、木々を植えまくることはない。そもそも櫓のまわりに木があったら、物見の邪魔だ。
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昭和60年に建てられた西門。
戸田氏鉄が入城350年を記念して建てられた門で、本来存在しない門。
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昭和60年に復元された乾隅櫓。
本丸は、先の艮隅櫓とこの乾隅櫓、もう1基の二重櫓と、三重櫓1基、多聞櫓によって囲まれており、威容を誇っていた。
公園に建つ、戸田氏鉄の銅像。
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威容を誇った大垣城も、天守近くまで市街地化が進み、非常に窮屈である。
もっとうまく整備・復元できると思うのだがね。

大垣城


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田中城(静岡県藤枝市) [城]

田中城
1570年に武田信玄が今川氏の支城である徳一式城を攻略し、馬場信房に改修させ、田中城とした。
田中城は、他に例を見ない円郭式で、方形の本丸を、円形の二の丸、さらに三の丸が囲む縄張り。
二の丸や三の丸は三日月堀を持つ馬出しという、甲州流の技法が随所に見られた。
武田家滅亡後は、駿府にいた家康の鷹狩りの際の宿泊場となり、本丸は田中御殿として整備され、
その後は、譜代大名が立ち代り入り、本多氏で明治を迎えた。
ちなみに家康が、天ぷらを食べて倒れたのは、この田中城である。

現在、田中城はほとんどが市街地化してしまったが、三の丸藩主下屋敷跡に、「田中城下屋敷」として、本丸の建築物を移築して公開されている。
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案内板にあった縄張り図。
円形は死角が出来ないのは確かだが、馬出しとセットになることで、より強固な防御性を手に入れることになる。
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下屋敷の入口。
貫門が印象的だ。
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門を入ってすぐ左側に建っているのは、御亭と呼ばれる、本丸に建っていた2階櫓。
明治になってから田中城には高橋泥舟が入ったが、その配下である村山氏がこの櫓を払い下げて、住宅として移築したとのこと。
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この櫓は本丸の南東の隅櫓として、3m程度の石垣の上に建っていたという。
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長楽寺村郷蔵。
郷蔵は、飢饉に備えた非常米を保存する蔵で、村役人が夜番していたという。
1843年に建て替えられたことが、柱に書かれているとのこと。
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仲間部屋。
田中城内にあった長屋門に付設されていた納屋。
鬼瓦には本多家の家紋が刻まれており、また安政6年と書かれた板材が発見されているので、そのころの建立だろう。
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納屋の奥は、厩となっている。
タテ髪にハリがなく、のっぺりしているが、ちょっとかわいい。
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数奇屋造りの茶室。
元は田中藩家老の茶室であったと伝わるが、さらには下屋敷藩邸にあった茶室といわれている。
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園内は、下屋敷庭園が文献より復元されており、そこに「家康公お手植えの蜜柑」が植えられている。
かなり眉唾だが、どっかから分けてもらったのかね。
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旭傳院に田中城城門が移築されている。
大きさからして、敷居門だろう。
両脇の塀に角度が付いていて、ちょっとカッコイイ。
城跡はほとんど市街地と化しているが、堀は所々残っているので、時間があればゆっくり歩きたいところだ。

田中城下屋敷


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相良城(静岡県牧之原市) [城]

相良城
田沼意次が城主格となり、所領の相良(5万7千石)の地に、12年の歳月をかけて築いた城が相良城である。
東西500m、南北450mにおよぶ広大な城であったが、築城して8年後の1788年に、意次の失脚により、
田沼家は陸奥下村藩へ転封し、相良城は政敵であった松平定信の命によって、徹底的に破却された。
その後に、意次の次男の意明が復帰し、二の丸跡に陣屋を築いた。

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現在、本丸跡には相良歴史資料館が建てられている。
城郭風建造物で、シンプルではあるが、しっくりきて好感が持てる博物館である。
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博物館の脇に建てられている、石碑。
博物館自体は、よくある歴史資料館だが、職員の対応が良く、
周辺の城や仙台河岸への行き方などを親切に教えてくれた。
教わった通りに、仙台河岸へ向う。
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仙台河岸は、数少ない相良城の遺構で、田沼意次が築城するにあたって、仙台藩が石垣用材を寄進し、
その石で作られた堀を仙台河岸と呼ばれている。
ぶっちゃけて言えば、時の権力者である意次に対する、仙台藩のゴマすりである。
昔は船着場で、仙石船が着けれる程であったが、いまでは埋め立てられて、見る影もない。
しかもドブ川となっており、ちょっと寂しい。
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現在、小学校となっているところが、二の丸だったところ。
小学校の入口には、土塁とそこに植えられたクロマツが残されている。
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近世城郭としては、比較的新しいが、短命であった相良城。
美人薄命とは、この城にこそピッタリな言葉である。

相良城


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龍岡城(長野県佐久市) [城]

田野口陣屋(龍岡城)
大給松平乗謨が1863年に三河奥殿藩から居所を田野口(佐久市)の所領に移し、その際築いたのが、田野口陣屋である。
築城に際し、洋式の稜堡式築城技術を取り入れた為、函館と同様の五稜郭となっている。
陣屋だけあって、函館五稜郭程の規模はなく、実戦的であるとは言えない。
縄張りこそ洋式城郭であるが、石垣、虎口、土塁の構造は、日本式の城郭技法で、良いモノを取り入れつつ、旧来のモノと融合させていく日本人っぽさがよく現れていると言える。
日本に2つしかない五稜郭、有名な函館ではない方の五稜郭を見に行ってきたよ。
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現地近くの道路標識。
龍岡城は、田野口陣屋の別名。
厳密には、明治元年に龍岡藩と改称したので、陣屋も龍岡城(龍岡陣屋)と呼ばれた。
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現地の説明板。
左上に書かれているように、五稜郭である。
水堀は、図の水色部分で、半分しか完成しなかった。

松平乗謨は、藩の軍制を早々にフランス式にするなど、軍の近代化に積極的であった大名である。 この稜堡式城郭もその考えから築かれたものであるが、2,3万石程度の大名が、しかも戦略的拠点でもないこの地に、小さいながらもこの規模の稜堡を築く目的がわからない。ま、面白いけどね(笑)
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現在、城址は小学校となっている。
廃藩後、すぐに小学校となった為、建造物を除いては、石垣や土塁の保存状態はいい。
この橋の先が、旧大手門である。
大手門から中に入らず、大手門の橋から反時計周りに周辺を見てみる。
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橋からみた堀。
堀幅は5m程度。気持ち程度の防御性だ。
堀の内側の石垣には、武者返しが付いており、石垣の上に土塁が築かれている。
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稜の先端部から大手門方向を見る。
城内に見える屋根は、招魂社。

石垣に武者返しは、品川台場でも見られるが、時代的に考えるとそれを参考にしたもかもしれない。品川台場の場合は、波による土塁崩れ防止なのだが、平城での稜堡なら土塁だけでいい。ビジュアル重視ってことですかね。
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先端部を越えると旧黒門の土橋があり、その土橋から来た方向を見る。
先に見えるのが稜部(尖っていて、砲台が置かれる部分)。
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土橋の反対側。こちらから半分は堀が未完成である。
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土橋を渡ると黒門と呼ばれる門があった。
石垣はその黒門のもの。
ここから城内(小学校内)に入ってみる。
入って右側にあるのが、陣屋の唯一の現存建造物の台所櫓。
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かなり大きい。よく現存したものだと、感心する。
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ちょうど内部見学会の団体がいたので、紛れて中に入った。
その点ではラッキーだったが、その時は常時見せてもらえるものだと思って、じっくり見てたら閉められてしまって、臨時的に内部を見せていたことを知った。
だから写真は取れなかったのだ....
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台所櫓の正面方向に橋が見えたので、運動場を横切って向ってみた。
橋から北の山の方向を見る。
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橋から南側を見る。
正面に見えるのは小学校の体育館。
校舎方向に歩いてみる。
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橋を渡り城外に出て、稜の先端方向を見る。
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先の方向を城内側から見たところ。
ここの小学校に通っていたら、調子に乗って遊んでて、この堀に5回は落ちてるだろうね、オレは(笑)
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先の稜の先端部を過ぎた、体育館の裏手あたりから、歩いてきた先端部方向を見たところ。
堀はここまでである。
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大手門入って、右側にある招魂社。
藩やこの地域の者で戊辰戦争から大東亜戦争までに亡くなった人を祀ってある。
ちょうど訪れた時期が紅葉の季節で、多くの人が写生していた。
城内(校内)では子供達が野球をしており、元気な声が響いていた。
午前中曇りだったのが、快晴となり、非常に気持ちいい感じである。
新海三社神社が近くにあるのだが、このときは訪問しなかったので、またこの辺りを探索したい。この後、R141を南下していき、須玉ICで中央道に入ったのだが、天気も良かったこともあり、ドライブ日和だった。

龍岡城


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大聖寺城(石川県加賀市) [城]

大聖寺城
鎌倉時代に狩野氏によって築かれた城で、戦国期には一向一揆の拠点となっていた。
その後、朝倉氏、そして織田信長に攻略され、柴田勝家が城を修復した後に、佐久間盛政が入った。
柴田勝家が秀吉に滅亡させられると、溝口秀勝が入城し、秀勝が新発田に転封すると、小早川秀秋の家臣山口宗永が配された。
山口宗永は関ヶ原の合戦では西軍に付いた為、前田家に攻められて落城、その後は前田領となり、一国一城令の際、廃城となる。
前田利常の三男利治が7万石を分封されて大聖寺を立藩し、大聖寺城の東丸に大聖寺陣屋を設けた。
大聖寺陣屋の遺構はほとんど残っていないが、1709年に3代藩主前田利直によって建てられた藩主の休息所の長流亭が現存しており、それを見に行ったよ。
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長流亭の紹介でよく見られる、大聖寺川対岸からのショット。
これが一番よく見えるショットである。
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長流亭は、江沼神社に間借りするようなかたちで建っている。江沼神社も、陣屋の跡地に建てられている。
建物は、小振りな数奇屋造りで、小堀遠州の設計によるもの。遠州は、利直と親交があったとされる。
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長流亭の脇戸。見学の際は、ここから入る。
見学は10:00~16:00で、この日到着したのが15:50だったので、急いで江沼神社の社務所へ向う。社務所で見学の旨を伝え、ギリギリ間に合った。
後で調べたら、前日までに予約となっていたが、予約なしでもOKでした。ま、担当者が不在の可能性もあるので、予約しておくのが無難かも。
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玄関扉。
このような建物としては珍しい観音開きで、透かし彫りが施してある扉が印象的。茶室風な外観と違い、擬洋風な感じである。
この玄関から藩主や藩主の客人が入室した。
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先の玄関入って正面の敷居戸。
入った者に視覚に刺激を与える為に、色鮮やかな模様が描かれている。
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廊下の突き当たりの面の窓が、川に面しており、当時は藩主が、釣りを楽しむことがあったという。
窓から川を見る。
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上の間。
飾り棚や付け書院が、簡素な空間にアクセントを与えている。
他に、障子の桟が特徴的で、縦横に数本を組み合わせている。
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長流亭から見た脇戸。
一見、質素な建物だが、所々に見える装飾がいいアクセントを与えており、華やかで風流な感じを与えてくれる。

長流亭


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