駿府城(静岡県静岡市) [城]
2011年の初城巡りは、めでたいところに行ってみるかってことで、駿府城にした。
いつでも行けるかって感じで、比較的近いのにスルーしまくっていたので、今回が初訪問となる。
駿府城
今川氏の城館があったところに、徳川家康が駿府城を築城し、居城を浜松城から駿府城に移した。
幕府開府後は、天下普請により城は大改修し、家康の隠居城となった。
家康以降は将軍家が数代入り、その後幕府直轄として、城代が入り明治を迎えた。
輪郭式の大城郭であったが、五重七階の天守は1635年に焼失し、
1854年に安政の大地震で建造物の大半が倒壊し、復興されないまま明治となった。
明治になってからは、城内に歩兵第34連隊が配備され、本丸の堀、石垣、天守台が破却されてしまい、
家康隠居城の面影は全くなくなってしまったが、平成になってから巽櫓と東門(枡形)が復元され、
多少見ごたえが出てきて、とりあえず家康の面目躍如か。
三の丸跡にある市立文化会館の駐車場に車を停め、駿府公園を探索開始した。
二の丸の堀。
二の丸の堀はほぼ完存してる。
奥に見えるのは、北御門の本橋。
本橋から見た、西側の二の丸掘。
本橋を渡って、二の丸側から北御門を見たところ。
本丸堀と二の丸堀を繋いだ水路跡。
本丸堀は軍隊が埋めちゃったので、水路の先はこのような貯水池状態。
枡形門の東御門から出て、枡形門の全容を確認する。
二の丸の南東部に位置する、巽櫓と二の丸東御門。
手前が平成元年に復元された巽櫓。
東御門は高麗門と櫓門に囲まれた、枡形門。
東御門の本橋から二の丸堀の北側を見たところ。
枡形二の門の櫓門。
東御門は平成8年に、寛政年間の創建当時の姿で復元された。
櫓門~巽櫓内は資料館となっているので、200円を払って入場した。
天守閣の復元模型。
天守台から天守閣が建っているのではなく、多聞櫓で囲まれてその中に天守が建っている。
5重7階の壮大な天守だ。
本丸~三の丸の模型。
本丸堀の発掘復元すると、もっと様になるのだが。
同じことを山形城でやってる最中なだけに、どうにかならないもんかね。
先の水路以外に残る本丸堀。
本丸天守台跡付近に建つ徳川家康像。
もちろん....天守台はこれっぽっちも残っていない。
二の丸北御門から出て、三の丸堀に向う。
三の丸深草門跡。
三の丸堀は、北・西部のみ現存。
三の丸堀の北西方向を見たところ。
訪問した日は静岡消防局の初出式で、非常に賑わっていた。
というより、人が多すぎてちょっと引いた....
駐車場:市立文化会館の駐車場
いつでも行けるかって感じで、比較的近いのにスルーしまくっていたので、今回が初訪問となる。
駿府城
今川氏の城館があったところに、徳川家康が駿府城を築城し、居城を浜松城から駿府城に移した。
幕府開府後は、天下普請により城は大改修し、家康の隠居城となった。
家康以降は将軍家が数代入り、その後幕府直轄として、城代が入り明治を迎えた。
輪郭式の大城郭であったが、五重七階の天守は1635年に焼失し、
1854年に安政の大地震で建造物の大半が倒壊し、復興されないまま明治となった。
明治になってからは、城内に歩兵第34連隊が配備され、本丸の堀、石垣、天守台が破却されてしまい、
家康隠居城の面影は全くなくなってしまったが、平成になってから巽櫓と東門(枡形)が復元され、
多少見ごたえが出てきて、とりあえず家康の面目躍如か。
三の丸跡にある市立文化会館の駐車場に車を停め、駿府公園を探索開始した。
二の丸の堀。
二の丸の堀はほぼ完存してる。
奥に見えるのは、北御門の本橋。
本橋から見た、西側の二の丸掘。
本橋を渡って、二の丸側から北御門を見たところ。
本丸堀と二の丸堀を繋いだ水路跡。
本丸堀は軍隊が埋めちゃったので、水路の先はこのような貯水池状態。
枡形門の東御門から出て、枡形門の全容を確認する。
二の丸の南東部に位置する、巽櫓と二の丸東御門。
手前が平成元年に復元された巽櫓。
東御門は高麗門と櫓門に囲まれた、枡形門。
東御門の本橋から二の丸堀の北側を見たところ。
枡形二の門の櫓門。
東御門は平成8年に、寛政年間の創建当時の姿で復元された。
櫓門~巽櫓内は資料館となっているので、200円を払って入場した。
天守閣の復元模型。
天守台から天守閣が建っているのではなく、多聞櫓で囲まれてその中に天守が建っている。
5重7階の壮大な天守だ。
本丸~三の丸の模型。
本丸堀の発掘復元すると、もっと様になるのだが。
同じことを山形城でやってる最中なだけに、どうにかならないもんかね。
先の水路以外に残る本丸堀。
本丸天守台跡付近に建つ徳川家康像。
もちろん....天守台はこれっぽっちも残っていない。
二の丸北御門から出て、三の丸堀に向う。
三の丸深草門跡。
三の丸堀は、北・西部のみ現存。
三の丸堀の北西方向を見たところ。
訪問した日は静岡消防局の初出式で、非常に賑わっていた。
というより、人が多すぎてちょっと引いた....
駐車場:市立文化会館の駐車場
タグ:城
当信寺(宮城県白石市) [城]
白石城の本丸へ向う坂道。
そこに説明板があったので、立ち止まって読んでみる.........
ここには、二の丸大手二の門、別名東口門が建っていたとのこと。
しかも、市内にある当信寺に移築されて現存しているらしいので、行ってみることに。
白石城駐車場から5分程度で到着。
2階部にある大きな花頭窓が印象的な門。
横には丸窓が設けられている。
幕末には、この門は太鼓門として使われたので、四方に窓が設けられたという。
今は太鼓は設置されていない。
鐘楼門として使ってもいいと思う。
山門としてはやはり違和感あるデザインで、やっぱ城門だなって感じがする。
本堂。
この当信寺1572年創建で、本尊は大阪の役の際に、大阪天王寺からもたされたものと伝わっている。
また、こちらには真田幸村の遺児の阿梅と真田大八の墓がある。
左の如意輪観音の石仏が阿梅の墓で、右が大八の墓。
阿梅は2代目白石城主片倉長重の後妻となり、大八は片倉守信と名乗り、仙台藩士となった。
大八の子の辰信の時、真田姓に復した。
こちらの訪問は予定になかったのだが、気ままに寄ってみるのいいもんだね。
住所:宮城県白石市字本町62
駐車場:門前に1台程度
そこに説明板があったので、立ち止まって読んでみる.........
ここには、二の丸大手二の門、別名東口門が建っていたとのこと。
しかも、市内にある当信寺に移築されて現存しているらしいので、行ってみることに。
白石城駐車場から5分程度で到着。
2階部にある大きな花頭窓が印象的な門。
横には丸窓が設けられている。
幕末には、この門は太鼓門として使われたので、四方に窓が設けられたという。
今は太鼓は設置されていない。
鐘楼門として使ってもいいと思う。
山門としてはやはり違和感あるデザインで、やっぱ城門だなって感じがする。
本堂。
この当信寺1572年創建で、本尊は大阪の役の際に、大阪天王寺からもたされたものと伝わっている。
また、こちらには真田幸村の遺児の阿梅と真田大八の墓がある。
左の如意輪観音の石仏が阿梅の墓で、右が大八の墓。
阿梅は2代目白石城主片倉長重の後妻となり、大八は片倉守信と名乗り、仙台藩士となった。
大八の子の辰信の時、真田姓に復した。
こちらの訪問は予定になかったのだが、気ままに寄ってみるのいいもんだね。
住所:宮城県白石市字本町62
駐車場:門前に1台程度
白石城(宮城県白石市) [城]
白石城(しろいしじょう)は、伊達氏に従属した白石氏の居城であったが、
会津に蒲生氏郷が移封されると支城として改修を受ける。
現在の近世化した縄張りは、この時期に作り上げられた。
関ヶ原以降は再び伊達領となり、家臣片倉景綱が入封し改築され、
片倉家は明治までこの地を治めた。
藩として独立しているわけではないが、一国一城令の後も例外として存城となった。
広島藩における三原城の存城のように、全国的に数少ない例である。
白石城の大櫓(天守って言ってる場合あり)や大手門が、平成7年に木造で復元され、
見応えのある本丸整備が進んでいる。
城下にある大きな観光駐車場に車を停め、登城開始。
復元された城壁と整備された石垣がいい雰囲気。
天守代用の大櫓。
実際は天守と呼ばれたことは無いが、実質的には天守だ。
大手一の門。
戸無しの枡形門。
大手二の門。
二の門は櫓門。
城内から見た二の門。
大櫓。
やっぱり天守クラスの建物は様になる。
登城口が印象的。
屋根付きはそもそも少ないが、復元されてもカットされることが多い部分だ。
3階には華頭形の出入口と高欄が付く、古風な作りだ。
復元されたこの櫓は、文政年間に再建されたものを復元されたのだが、
その再建時も元の形を意識したのだろうか。
城内に展示してあった、片倉家と真田赤備の甲冑群。
真田幸村は、片倉重長に4人の子息を託しており、重長の後妻となった阿梅をはじめ、
伊達家の家臣に嫁いでいる。
男子である大八は、仙台藩士に取り上げられおり、両家の繋がりは非常に深い。
大阪の役では敵同士であったにも関わらず、子息を託したのだから、よっぽどの漢だったのだろう。
高欄からみた大手門。
三階櫓の隣に建つ鐘堂。
城内案内板。
2の未申櫓と3の辰巳櫓が復元されると、言うことなしですね。
本丸に力いっぱい御殿をつくると、ゴチャゴチャしすぎで暑苦しい。
二の門と三階櫓。
二の丸。
遊具のすべてをクリームイエローで塗装された、微妙な公園となっている。
やっぱりあると思ったよ...コレ(笑)
会津に蒲生氏郷が移封されると支城として改修を受ける。
現在の近世化した縄張りは、この時期に作り上げられた。
関ヶ原以降は再び伊達領となり、家臣片倉景綱が入封し改築され、
片倉家は明治までこの地を治めた。
藩として独立しているわけではないが、一国一城令の後も例外として存城となった。
広島藩における三原城の存城のように、全国的に数少ない例である。
白石城の大櫓(天守って言ってる場合あり)や大手門が、平成7年に木造で復元され、
見応えのある本丸整備が進んでいる。
城下にある大きな観光駐車場に車を停め、登城開始。
復元された城壁と整備された石垣がいい雰囲気。
天守代用の大櫓。
実際は天守と呼ばれたことは無いが、実質的には天守だ。
大手一の門。
戸無しの枡形門。
大手二の門。
二の門は櫓門。
城内から見た二の門。
大櫓。
やっぱり天守クラスの建物は様になる。
登城口が印象的。
屋根付きはそもそも少ないが、復元されてもカットされることが多い部分だ。
3階には華頭形の出入口と高欄が付く、古風な作りだ。
復元されたこの櫓は、文政年間に再建されたものを復元されたのだが、
その再建時も元の形を意識したのだろうか。
城内に展示してあった、片倉家と真田赤備の甲冑群。
真田幸村は、片倉重長に4人の子息を託しており、重長の後妻となった阿梅をはじめ、
伊達家の家臣に嫁いでいる。
男子である大八は、仙台藩士に取り上げられおり、両家の繋がりは非常に深い。
大阪の役では敵同士であったにも関わらず、子息を託したのだから、よっぽどの漢だったのだろう。
高欄からみた大手門。
三階櫓の隣に建つ鐘堂。
城内案内板。
2の未申櫓と3の辰巳櫓が復元されると、言うことなしですね。
本丸に力いっぱい御殿をつくると、ゴチャゴチャしすぎで暑苦しい。
二の門と三階櫓。
二の丸。
遊具のすべてをクリームイエローで塗装された、微妙な公園となっている。
やっぱりあると思ったよ...コレ(笑)
タグ:城
現存12天守 [城]
江戸から現存している天守閣が12ある。
12しかないと言ったほうがいいかな...
2010年の夏季休暇で東北・道南方面の城巡りをした際、弘前城をもってして、
現存12天守を制覇したので、12天守をまとめてみた。
とりあえず北から
1)弘前城(重文)
元は5重の天守が建っていたが、1627年の落雷で焼失。
現在の3重の天守は、1810年に再建された巽櫓。
攻城日:2010.07.30
2)松本城(国宝)
1596年頃に建てられた連結式複合天守。
付属する月見櫓は1633年の建築。
攻城日:2006.11.01
3)丸岡城(重文)
1576年に柴田勝豊が築城したとされ、最古の天守と言われることもあるが、詳細は不明。
瓦が石瓦なのが珍しい。
攻城日:2008.08.03
4)犬山城(国宝)
こちらも最古の天守と言われるが、現存天守は1600年頃の建築だろう。
古式の望楼型天守。
攻城日:2006.03.17
5)彦根城(国宝)
大阪への街道を押さえるべく、井伊直政によって築城。
大津城から天守を移築されたとされるが、材料の転用程度だったのでないか。
攻城日:2005.08.23
6)姫路城(国宝・世界遺産)
言わずと知れたキングオブ近世城郭。
ここまで現存したのが奇跡。
城好きなら、まず行っとけ。(今は修築中なので、いつもの雄姿は見れず)
攻城日:2005.08.16
7)備中松山城(重文)
現存天守では最小の天守。
山城でありながら、天守を持つ近世城郭は必見。
攻城日:2009.08.19
8)松江城(重文)
関ヶ原の合戦後に入封した堀尾吉晴によって築城。
豊臣系大名らしく、黒の下板見張りの望楼型天守。
まさしく古武士。
攻城日:2005.08.19
9)丸亀城(重文)
生駒氏によって築城されるが、一国一城令によって、一旦は破却されるが、
その後山崎氏が入って、再整備した。
攻城日:2006.03.23
10)伊予松山城(重文)
1602年に加藤嘉明によって築城。天守は当初五重の予定であったが、三重で造られた。
1784年に落雷で焼失したが、1854年に再建された。
訪問時は、あいにく天守は修築中でした。再登城する予定....いつかは。
攻城日:2006.03.20
11)宇和島城(重文)
現存天守は、1622年の建築。
防御施設として造られたのではなく、シンボル的に建てられたと言われている。
攻城日:2006.03.21
12)高知城(重文)
山内一豊によって築城された天守は、1727年に焼失したが、
1747年に元の姿で再建された。
攻城日:2006.03.21
攻城日より前に行ったところはあるのですが、今の愛車アルファロメオ156で巡ってからの日を記載してます。
2005~2006年は溜りまくった代休を消化していた時期で、結構旅してました。
さすがに2000kmオーバーの旅は、夏季休暇ぐらいでしか行けないわ。
100名城となると、いつ達成になることやら.........
姫路城を古写真風に
12しかないと言ったほうがいいかな...
2010年の夏季休暇で東北・道南方面の城巡りをした際、弘前城をもってして、
現存12天守を制覇したので、12天守をまとめてみた。
とりあえず北から
1)弘前城(重文)
元は5重の天守が建っていたが、1627年の落雷で焼失。
現在の3重の天守は、1810年に再建された巽櫓。
攻城日:2010.07.30
2)松本城(国宝)
1596年頃に建てられた連結式複合天守。
付属する月見櫓は1633年の建築。
攻城日:2006.11.01
3)丸岡城(重文)
1576年に柴田勝豊が築城したとされ、最古の天守と言われることもあるが、詳細は不明。
瓦が石瓦なのが珍しい。
攻城日:2008.08.03
4)犬山城(国宝)
こちらも最古の天守と言われるが、現存天守は1600年頃の建築だろう。
古式の望楼型天守。
攻城日:2006.03.17
5)彦根城(国宝)
大阪への街道を押さえるべく、井伊直政によって築城。
大津城から天守を移築されたとされるが、材料の転用程度だったのでないか。
攻城日:2005.08.23
6)姫路城(国宝・世界遺産)
言わずと知れたキングオブ近世城郭。
ここまで現存したのが奇跡。
城好きなら、まず行っとけ。(今は修築中なので、いつもの雄姿は見れず)
攻城日:2005.08.16
7)備中松山城(重文)
現存天守では最小の天守。
山城でありながら、天守を持つ近世城郭は必見。
攻城日:2009.08.19
8)松江城(重文)
関ヶ原の合戦後に入封した堀尾吉晴によって築城。
豊臣系大名らしく、黒の下板見張りの望楼型天守。
まさしく古武士。
攻城日:2005.08.19
9)丸亀城(重文)
生駒氏によって築城されるが、一国一城令によって、一旦は破却されるが、
その後山崎氏が入って、再整備した。
攻城日:2006.03.23
10)伊予松山城(重文)
1602年に加藤嘉明によって築城。天守は当初五重の予定であったが、三重で造られた。
1784年に落雷で焼失したが、1854年に再建された。
訪問時は、あいにく天守は修築中でした。再登城する予定....いつかは。
攻城日:2006.03.20
11)宇和島城(重文)
現存天守は、1622年の建築。
防御施設として造られたのではなく、シンボル的に建てられたと言われている。
攻城日:2006.03.21
12)高知城(重文)
山内一豊によって築城された天守は、1727年に焼失したが、
1747年に元の姿で再建された。
攻城日:2006.03.21
攻城日より前に行ったところはあるのですが、今の愛車アルファロメオ156で巡ってからの日を記載してます。
2005~2006年は溜りまくった代休を消化していた時期で、結構旅してました。
さすがに2000kmオーバーの旅は、夏季休暇ぐらいでしか行けないわ。
100名城となると、いつ達成になることやら.........
姫路城を古写真風に
タグ:城
沼田城(群馬県沼田市) [城]
沼田城
鎌倉時代より、この地を治めていた沼田氏が、1532年頃にこの地に築城したのがはじまり。
この地は関東と信越の要所な為、上杉、北条、武田家の争奪の場となったが、1580年に真田昌幸が沼田城を攻略し、
昌幸は翌年に沼田城奪還の為に来攻してきた沼田氏を滅亡させた。
武田家滅亡後は、一時的に滝川一益領となったが、その後は真田⇒北条領と変わったが、
北条領の時に、北条氏が真田の城である名胡桃城を攻略したことが、豊臣秀吉の小田原攻めの契機になった。
小田原攻めの後は、沼田には真田信之が入り、沼田城に五重の天守閣を建てる等、近世城郭へと修築した。
1616年に真田信吉が分知立藩したが、1681年に改易となり、城は破却されてしまった。
その後、本多、黒田、土岐氏が入って、明治を迎えた。
破却後の城が、多少は整備されたものの、三の丸の御殿が建てられたくらいという。
二の丸跡の駐車場に車を停めて、攻略開始。
沼田城の縄張り図。真田時代のもので、五層の天守が描かれている。
二の丸(縄張図上部の郭)はグランドになっており、周辺が土塁に囲まれている。
本丸への虎口。
土塁はどこまでが現存なものなのか不明だが、二の丸形状はおおよそグランドのままだろう。
二の丸と本丸の間の馬出しだった郭。
一部テニスコートになっており、その脇にわずかながら水堀とその石垣が残っている。
堀というより、貯水池っぽい空間である。
本丸。
非常に色鮮やかで、ぶらり散歩には最高な雰囲気です。
利根英霊殿。
この後ろの小山が天守閣跡である。
15mの高石垣と五層天守が建っていた面影は全く無い。
小山を掘れば、石垣が出てくるのだろうか?そもそもが眉唾っぽい感じさえ受ける。
本丸の隅に建つ袴腰付鐘楼堂。
鐘は、真田信吉がつくらせた、県文となっているモノのレプリカで、今日でも朝夕に時の音を響かせている。
本丸の西隅櫓の櫓台の石垣。
近世城郭らしさが感じられるのは、この隅櫓周辺だけ。
周りを歩いてみる。
周って、櫓台越し(右側)に鐘楼を見る。
そのまま、捨曲輪の方へ歩く。
捨曲輪の端からの眺め。
月夜野の方で、名胡桃城はすぐ近くである。
捨曲輪にある沼田平八郎首石。
平八郎は、この地を治めていた沼田家12代顕秦の子で、沼田の地を追われて会津に逃げていたが、沼田城奪還の為、挙兵し沼田に迫ったが、真田昌幸の謀略により殺害されてしまった。
その首実験の際に、首を置いたとされるのが、この首石である。
天狗堂。中には大きな天狗面が納められていた。
天守台の小山と捨曲輪の間にある小池。
堀の名残かどうかは不明だが、ただの湧水の池か?
現在の公園の正面ゲート。
ここの駐車場付近が三の丸だったところ。
駐車場の端には、三の丸土塁が残っている。
公園内にある旧生方家に展示してあった、沼田城天守閣の復元模型。
かっけ~
鎌倉時代より、この地を治めていた沼田氏が、1532年頃にこの地に築城したのがはじまり。
この地は関東と信越の要所な為、上杉、北条、武田家の争奪の場となったが、1580年に真田昌幸が沼田城を攻略し、
昌幸は翌年に沼田城奪還の為に来攻してきた沼田氏を滅亡させた。
武田家滅亡後は、一時的に滝川一益領となったが、その後は真田⇒北条領と変わったが、
北条領の時に、北条氏が真田の城である名胡桃城を攻略したことが、豊臣秀吉の小田原攻めの契機になった。
小田原攻めの後は、沼田には真田信之が入り、沼田城に五重の天守閣を建てる等、近世城郭へと修築した。
1616年に真田信吉が分知立藩したが、1681年に改易となり、城は破却されてしまった。
その後、本多、黒田、土岐氏が入って、明治を迎えた。
破却後の城が、多少は整備されたものの、三の丸の御殿が建てられたくらいという。
二の丸跡の駐車場に車を停めて、攻略開始。
沼田城の縄張り図。真田時代のもので、五層の天守が描かれている。
二の丸(縄張図上部の郭)はグランドになっており、周辺が土塁に囲まれている。
本丸への虎口。
土塁はどこまでが現存なものなのか不明だが、二の丸形状はおおよそグランドのままだろう。
二の丸と本丸の間の馬出しだった郭。
一部テニスコートになっており、その脇にわずかながら水堀とその石垣が残っている。
堀というより、貯水池っぽい空間である。
本丸。
非常に色鮮やかで、ぶらり散歩には最高な雰囲気です。
利根英霊殿。
この後ろの小山が天守閣跡である。
15mの高石垣と五層天守が建っていた面影は全く無い。
小山を掘れば、石垣が出てくるのだろうか?そもそもが眉唾っぽい感じさえ受ける。
本丸の隅に建つ袴腰付鐘楼堂。
鐘は、真田信吉がつくらせた、県文となっているモノのレプリカで、今日でも朝夕に時の音を響かせている。
本丸の西隅櫓の櫓台の石垣。
近世城郭らしさが感じられるのは、この隅櫓周辺だけ。
周りを歩いてみる。
周って、櫓台越し(右側)に鐘楼を見る。
そのまま、捨曲輪の方へ歩く。
捨曲輪の端からの眺め。
月夜野の方で、名胡桃城はすぐ近くである。
捨曲輪にある沼田平八郎首石。
平八郎は、この地を治めていた沼田家12代顕秦の子で、沼田の地を追われて会津に逃げていたが、沼田城奪還の為、挙兵し沼田に迫ったが、真田昌幸の謀略により殺害されてしまった。
その首実験の際に、首を置いたとされるのが、この首石である。
天狗堂。中には大きな天狗面が納められていた。
天守台の小山と捨曲輪の間にある小池。
堀の名残かどうかは不明だが、ただの湧水の池か?
現在の公園の正面ゲート。
ここの駐車場付近が三の丸だったところ。
駐車場の端には、三の丸土塁が残っている。
公園内にある旧生方家に展示してあった、沼田城天守閣の復元模型。
かっけ~
佐貫城(千葉県富津市) [城]
佐貫城
富津市の北上川と小染川に囲まれた丘陵に位置し、応永年間に武田氏が築城したと伝わる城。
戦国期には里見義弘の本城となり、その後北条氏、内藤氏、松平氏と入った。
その後廃城となったが、1710年に阿部正鎮が封じられて再建し、明治まで至った。
千葉の城としては珍しい石垣の櫓台を持ち、藩政時代にも在城したが中世然とした城郭が特徴的です。
飯野陣屋から車で20分程度で、佐貫城の登城口に到着。
ネットで調べた際、駐車場が無いとなっていたが、登城口の脇に20台は停められる駐車場が設けてありました。
駐車場から見た佐貫城。後ろみ見える山がそうです。
(ホイール汚ね~....)
佐貫城の登城口。
登城口にある案内版。オレンジの矢印部が登城口です。
登城口すぐの大手の櫓台の石垣。
千葉の城郭では石垣が珍しいですね。
登城口を振り返ってみる。
登城道というより、堀切のような雰囲気。
三の丸。
二の丸へ続く山道。左側が二の丸。
そこにさりげなく置いてある、犬の彫り物。
何の説明もなく、ただ置いてあるので、何だろ?って感じ。
二の丸を左手側に進みます。
さらに進みます。
二の丸と本丸と繋ぐ土橋。
西側は水堀となっている。
本丸側から見た土橋と虎口。
本丸。
本丸には北と西に物見台が2箇所あり。
(先の縄張図の赤丸のところ)
西の物見台へ向う。左側が先程見た水掘だが、見下ろすとかなり高くて急。
西の物見台。
物見台の手前に2段の腰曲輪を持つ。
北の物見台。
物見台から見た風景。
下に国道127号、奥の山頂には東京湾観音が見える。
駐車場に戻る際、石垣の櫓台の上に立ち寄る。
熊のベンチに座って、ちょっと休憩した。
北の物見台の下の方には行ってなく、里見氏の城郭によく見られる岩盤の切削を見逃してしまった。また下総方面の城跡探索の際に立ち寄ろうと思う。
もちろん帰りには東京湾観音に寄ったぜよ。
富津市の北上川と小染川に囲まれた丘陵に位置し、応永年間に武田氏が築城したと伝わる城。
戦国期には里見義弘の本城となり、その後北条氏、内藤氏、松平氏と入った。
その後廃城となったが、1710年に阿部正鎮が封じられて再建し、明治まで至った。
千葉の城としては珍しい石垣の櫓台を持ち、藩政時代にも在城したが中世然とした城郭が特徴的です。
飯野陣屋から車で20分程度で、佐貫城の登城口に到着。
ネットで調べた際、駐車場が無いとなっていたが、登城口の脇に20台は停められる駐車場が設けてありました。
駐車場から見た佐貫城。後ろみ見える山がそうです。
(ホイール汚ね~....)
佐貫城の登城口。
登城口にある案内版。オレンジの矢印部が登城口です。
登城口すぐの大手の櫓台の石垣。
千葉の城郭では石垣が珍しいですね。
登城口を振り返ってみる。
登城道というより、堀切のような雰囲気。
三の丸。
二の丸へ続く山道。左側が二の丸。
そこにさりげなく置いてある、犬の彫り物。
何の説明もなく、ただ置いてあるので、何だろ?って感じ。
二の丸を左手側に進みます。
さらに進みます。
二の丸と本丸と繋ぐ土橋。
西側は水堀となっている。
本丸側から見た土橋と虎口。
本丸。
本丸には北と西に物見台が2箇所あり。
(先の縄張図の赤丸のところ)
西の物見台へ向う。左側が先程見た水掘だが、見下ろすとかなり高くて急。
西の物見台。
物見台の手前に2段の腰曲輪を持つ。
北の物見台。
物見台から見た風景。
下に国道127号、奥の山頂には東京湾観音が見える。
駐車場に戻る際、石垣の櫓台の上に立ち寄る。
熊のベンチに座って、ちょっと休憩した。
北の物見台の下の方には行ってなく、里見氏の城郭によく見られる岩盤の切削を見逃してしまった。また下総方面の城跡探索の際に立ち寄ろうと思う。
もちろん帰りには東京湾観音に寄ったぜよ。
タグ:城
飯野陣屋(千葉県富津市) [城]
飯野陣屋
高遠藩の保科正直の三男正貞が1647年に築いた陣屋。
飯野藩は1万7000石であるが、飯野の地は3000石しかなく、ほとんどが関西に方にあったので、
城ではなく陣屋しか築けなかったようです。
日本三大陣屋と呼ばれるほどの規模を誇り、あわよくば城を作ろうとした野心が感じられる。
現在ではほとんどの敷地が住宅や農地になってしまったが、外周を囲む水掘や土塁が現存しており、
陣屋の規模を実感することができる。
現地案内板から、縄張りを確認。
三条塚と呼ばれる古墳も郭に取り込んでおり、現在でも古墳の水掘の一部が残っている。
車を飯野神社の駐車場に停めて、大手口に戻ってから探索開始。
大手の脇にある説明板と石碑。
大手口。虎口としての遺構はない。
奥に小さく見えるのが飯野神社。神社が陣屋の中心位置くらいなので、広大な陣屋が伺い知れる。
大手から北西の堀。
このような4~5m幅の水堀が陣屋全周に廻らされている。
飯野神社。
元は三の丸の北西部にある稲荷塚に鎮座していたが、1757年に藩主の命により移された。
大正時代には旧飯野村の神社が合祀された。
飯野神社本殿。
摂社の飯堅神社。トタン板で囲われたのが印象的。
本殿裏に集められていた庚申塔と狛犬達。
左端の狛犬がウルトラマンに出てきた怪獣ギャンゴに似ている。
本殿裏手には、三の丸の土塁が残っている。
三条塚古墳の方へ行ってみる。
ちょっとわかり辛いが、前方後円墳の円墳部の小山。
藩政時代には、ここに藩校が建てられていたという。
古墳の上に学校ってのも、何だかなぁって感じがする。
古墳の堀には、わずかながら水が残っている箇所もある。
画像は円墳部の外側から見たところ。
そのまま外周に出ます。
この通路は、明治以降に生活路として作られたもの。
ここから北側のロングな堀を見る。
非常に長い堀だが、水量が少ない上、堀もかなり埋まってしまったのか、浅くて迫力不足。
南西側の堀。
そのまま南側に進むと搦手口の虎口が現れる。
そこから入って、三の丸を歩く。
三の丸外周の土塁。土塁の向こうが水掘。
南側を土塁と平行して歩く。
はっきり言ってですね.....この陣屋内や堀にゴミのポイ捨てが激しくて、汚い。
空き缶からペットボトル、ビニールといった生活ゴミから、自転車なんかも放置され、非常に残念な気持ちになった。
気を取り直して、大手に戻って、北側を外周に沿って歩きます。
南東のクランク部の堀。
南東の堀。内側は二の丸の土塁。
陣屋としての外形はしっかり残っており、堀や神社・古墳周辺を、公園または遊歩道として整備すればすごく良くなるのだが.....
高遠藩の保科正直の三男正貞が1647年に築いた陣屋。
飯野藩は1万7000石であるが、飯野の地は3000石しかなく、ほとんどが関西に方にあったので、
城ではなく陣屋しか築けなかったようです。
日本三大陣屋と呼ばれるほどの規模を誇り、あわよくば城を作ろうとした野心が感じられる。
現在ではほとんどの敷地が住宅や農地になってしまったが、外周を囲む水掘や土塁が現存しており、
陣屋の規模を実感することができる。
現地案内板から、縄張りを確認。
三条塚と呼ばれる古墳も郭に取り込んでおり、現在でも古墳の水掘の一部が残っている。
車を飯野神社の駐車場に停めて、大手口に戻ってから探索開始。
大手の脇にある説明板と石碑。
大手口。虎口としての遺構はない。
奥に小さく見えるのが飯野神社。神社が陣屋の中心位置くらいなので、広大な陣屋が伺い知れる。
大手から北西の堀。
このような4~5m幅の水堀が陣屋全周に廻らされている。
飯野神社。
元は三の丸の北西部にある稲荷塚に鎮座していたが、1757年に藩主の命により移された。
大正時代には旧飯野村の神社が合祀された。
飯野神社本殿。
摂社の飯堅神社。トタン板で囲われたのが印象的。
本殿裏に集められていた庚申塔と狛犬達。
左端の狛犬がウルトラマンに出てきた怪獣ギャンゴに似ている。
本殿裏手には、三の丸の土塁が残っている。
三条塚古墳の方へ行ってみる。
ちょっとわかり辛いが、前方後円墳の円墳部の小山。
藩政時代には、ここに藩校が建てられていたという。
古墳の上に学校ってのも、何だかなぁって感じがする。
古墳の堀には、わずかながら水が残っている箇所もある。
画像は円墳部の外側から見たところ。
そのまま外周に出ます。
この通路は、明治以降に生活路として作られたもの。
ここから北側のロングな堀を見る。
非常に長い堀だが、水量が少ない上、堀もかなり埋まってしまったのか、浅くて迫力不足。
南西側の堀。
そのまま南側に進むと搦手口の虎口が現れる。
そこから入って、三の丸を歩く。
三の丸外周の土塁。土塁の向こうが水掘。
南側を土塁と平行して歩く。
はっきり言ってですね.....この陣屋内や堀にゴミのポイ捨てが激しくて、汚い。
空き缶からペットボトル、ビニールといった生活ゴミから、自転車なんかも放置され、非常に残念な気持ちになった。
気を取り直して、大手に戻って、北側を外周に沿って歩きます。
南東のクランク部の堀。
南東の堀。内側は二の丸の土塁。
陣屋としての外形はしっかり残っており、堀や神社・古墳周辺を、公園または遊歩道として整備すればすごく良くなるのだが.....
タグ:城
横須賀城(静岡県掛川市) [城]
横須賀城
武田勝頼によって高天神城を落とされた徳川家康が、大須賀康高に命じて築城させた。大須賀家は、家康が関東入封後に久留里城主となるが、関ヶ原の合戦後に再び横須賀城に入ることになった。
しかし、大須賀康高には嗣子がいなかった為、榊原康政の長男忠政が養子となって大須賀家を継いでいたが、その子の忠次のとき、館林藩主だった榊原康勝が若くして亡くなり、榊原家を忠次が継いだ為、大須賀家は断絶となる。
川原石を使って築かれた玉石垣が特徴なのだが、整備しすぎてるせいか、ちょっとキレイすぎる感もある。
本丸南下門前の駐車場に車を停めて、探索へGo!!
横須賀城跡の中で一番の見所の、本丸南下門跡。
丸っこい玉石垣が印象的であるが、重厚な石垣群もすばらしい。
石垣の脇に埋門のような石扉があるが、これは暗渠口のようだ。
危険防止のため、石で塞いだとのこと。
本丸へ登城します。
本丸。奥に見えるのは天守台。
かなり整備されていて、散歩するには心地いい公園だろうね。
天守台跡。
ここには四層の天守閣が聳えてっていた。
礎石が並んでいる所に天守閣が建っていたのだが、天守台としての石垣が非常に低く、奥側(北側)を土塁を構築して防御を高めていたという。
ちょっと珍しい構成の天守閣ですね。
復元図でも見てみたいものです。
土塁から見た天守台。(南東側)
土塁から見た本丸と西の丸。(南西側)
本丸にある縄張りの模型。
元は中世城郭であったが、その後も整備され続け、完全に近世城郭化している。
本丸から見た北の丸の東部。奥へ進んだ辺りが北の丸の主郭となる。
本丸東部にある、本丸から三日月池に下りるスロープ。
三日月池。
北の丸の広場。左側に見えるのは、松尾山。
この城跡公園は、建物等の礎石や敷石の遺構を説明板での解説だけでなく、わかりやすいように整備されている。
西の丸の西斜面の石段。
石段を降りたところにある米蔵跡。
米蔵跡にあった、たたき製防火水槽。
側面には、横須賀城主の西尾家の家紋が彫られいる。
城跡公園から出て、県道沿い辺りに崩れかけた石垣が残っている。
これが横須賀城の外堀の石垣で、現在の県道が土手で、その南側は入江となっていた。
埋め立てられたわけではなく、宝永の大地震で入江が隆起し、海岸線が離れてしまったという。
横須賀城からすぐ近くにある本源寺。
ここの山門は横須賀城の移築物件で、搦手門と伝わる。
最後に、西の丸からみた南下門を幕末古写真風に。
□横須賀藩西尾家江戸菩提寺⇒勝興寺
武田勝頼によって高天神城を落とされた徳川家康が、大須賀康高に命じて築城させた。大須賀家は、家康が関東入封後に久留里城主となるが、関ヶ原の合戦後に再び横須賀城に入ることになった。
しかし、大須賀康高には嗣子がいなかった為、榊原康政の長男忠政が養子となって大須賀家を継いでいたが、その子の忠次のとき、館林藩主だった榊原康勝が若くして亡くなり、榊原家を忠次が継いだ為、大須賀家は断絶となる。
川原石を使って築かれた玉石垣が特徴なのだが、整備しすぎてるせいか、ちょっとキレイすぎる感もある。
本丸南下門前の駐車場に車を停めて、探索へGo!!
横須賀城跡の中で一番の見所の、本丸南下門跡。
丸っこい玉石垣が印象的であるが、重厚な石垣群もすばらしい。
石垣の脇に埋門のような石扉があるが、これは暗渠口のようだ。
危険防止のため、石で塞いだとのこと。
本丸へ登城します。
本丸。奥に見えるのは天守台。
かなり整備されていて、散歩するには心地いい公園だろうね。
天守台跡。
ここには四層の天守閣が聳えてっていた。
礎石が並んでいる所に天守閣が建っていたのだが、天守台としての石垣が非常に低く、奥側(北側)を土塁を構築して防御を高めていたという。
ちょっと珍しい構成の天守閣ですね。
復元図でも見てみたいものです。
土塁から見た天守台。(南東側)
土塁から見た本丸と西の丸。(南西側)
本丸にある縄張りの模型。
元は中世城郭であったが、その後も整備され続け、完全に近世城郭化している。
本丸から見た北の丸の東部。奥へ進んだ辺りが北の丸の主郭となる。
本丸東部にある、本丸から三日月池に下りるスロープ。
三日月池。
北の丸の広場。左側に見えるのは、松尾山。
この城跡公園は、建物等の礎石や敷石の遺構を説明板での解説だけでなく、わかりやすいように整備されている。
西の丸の西斜面の石段。
石段を降りたところにある米蔵跡。
米蔵跡にあった、たたき製防火水槽。
側面には、横須賀城主の西尾家の家紋が彫られいる。
城跡公園から出て、県道沿い辺りに崩れかけた石垣が残っている。
これが横須賀城の外堀の石垣で、現在の県道が土手で、その南側は入江となっていた。
埋め立てられたわけではなく、宝永の大地震で入江が隆起し、海岸線が離れてしまったという。
横須賀城からすぐ近くにある本源寺。
ここの山門は横須賀城の移築物件で、搦手門と伝わる。
最後に、西の丸からみた南下門を幕末古写真風に。
□横須賀藩西尾家江戸菩提寺⇒勝興寺
タグ:城
高遠城(長野県伊那市) [城]
高遠城....
小彼岸桜の名所として有名な城跡公園。
桜のシーズンには、人でごった返し、公園だけではく周辺までも賑やかになる...らしい。
訪問したのは9月であったが、連休中にもかかわらず、人はまばらで、周辺の店はほとんど閉まっており、ゴーストタウン化していた。
また、駐車場も有料と無料が入り混じり、有料に停めてしまってガッカリしたり、桜シーズン以外は解放状態の入場ゲートも、何も記載が無いので入るときに一瞬戸惑う。
この中途半端加減が、なんとも奥ゆかしい。
さて、この高遠城が現在の縄張りとなったのは、武田信玄が侵攻後にこの地を整備してからである。縄張りは山本勘助が行ったと言われるが、定かではない。
武田家滅亡後も、多少の改変はありながらも、明治まで迎えた。
近世城郭として使われたにもかかわらず、中世の山城っぽさを強く感じるのは、近世城郭らしい建物や石垣といった遺構が無いからだろうね。
高遠城の縄張り。
三峰川と藤沢川の合流地の段丘上にあり、半輪郭式に縄張り。
法幢院曲輪は、馬出しといったところか。
進徳館の右横にある有料駐車場に車を止め、高遠城を探索した。
二の丸に入ってすぐにある高遠閣。
公園の休息所、地域の集会所として、昭和11年に建てられた建物で、登録有形文化財。
大正・昭和期の旅館建築風で、この威圧的な風格が、高遠城のシンボルとなっている。
二の丸と本丸を繋ぐ桜雲橋。
奥に見える門は、城門ではなく、城下にあった問屋門。
規模は伴わない小さい門だが、橋との相性はなかなかで、雰囲気はいいと思う。
橋から見た空堀。(東側)
大規模な堀で、ウォーキングコースとなっている。
橋から見た空堀。(西側)
底にわずかだが水が溜まっている。
本丸側から見た問屋門。
高遠城では珍しい石垣。藩政時代に整備されたものだろう。
近世城郭っぽさが感じられる数少ない箇所である。
新城神社。
1828年に城主内藤頼寧が、この城で最後を遂げた仁科盛信を祀った神社。
城内には内藤家の先祖の藤原氏を祀った藤原社があり、明治になってこちらと合祀された。
太鼓櫓。
藩政時代の太鼓櫓は搦手門内にあったが、明治の廃城の際、撤去された。
現在の櫓は、明治45年に建てられたもの。
南曲輪に建っている忠魂碑と砲弾型の忠骨蔵。
忠骨蔵は、日露戦争で戦死した方の遺骨や遺品が納められている蔵とのこと。
最初は砲弾型の忠魂碑かと思った。
南曲輪から白兎橋を渡って、法幢院曲輪へ。
元はここに法幢院という寺があったことから、曲輪の名前となったという。
防御性が低い南東部を守る、馬出し的な郭だが、織田軍による攻撃では、ここを滝川一益に落とされ、落城してしまった。
高遠城は地形をうまく利用した堅城ではあるが、さすがに6万の大軍の攻撃は防ぎきれなかった。
織田軍の侵攻に対する為にこの高遠城に入ったのは、武田信玄の5男の仁科盛信。
盛信は最後に腹を切った後に、ハラワタを掴んでぶん投げたという逸話を持つ、勇猛な武将である。
離反が相次いだ武田家の中で、最後まで武田家の気骨を示した武将だ。
三の丸に移築されている城門。
元は鐘楼門だったらしいが、楼部分は削除され、薬医門になっている。
門だけがポツンと建っているので、非常に寂しい風景。
勘助曲輪。
現在は、三の丸と勘助曲輪の堀は埋められて大きな平地となっており、無料の駐車場となっている。
元からあった曲輪ではなく、近世城郭に改変の大手と搦手を入れ替えた際に作られた曲輪と言われている。
高遠城が山本勘助によって縄張をしたと伝わっていたことから、名前の由来となったのだろう。
法幢院曲輪ちかくにある、資料館?の建物。
こんな細い天守にしなくて、もう少し天守っぽくしたほうがよかったような.....
高遠城の桜は満開時には圧倒的な光景となり、ぜひ見てみたいのだが、あの人ゴミと渋滞っぷりは、行く気がそがれてしまう...
バスツアーで行くのが良いのかもね。
小彼岸桜の名所として有名な城跡公園。
桜のシーズンには、人でごった返し、公園だけではく周辺までも賑やかになる...らしい。
訪問したのは9月であったが、連休中にもかかわらず、人はまばらで、周辺の店はほとんど閉まっており、ゴーストタウン化していた。
また、駐車場も有料と無料が入り混じり、有料に停めてしまってガッカリしたり、桜シーズン以外は解放状態の入場ゲートも、何も記載が無いので入るときに一瞬戸惑う。
この中途半端加減が、なんとも奥ゆかしい。
さて、この高遠城が現在の縄張りとなったのは、武田信玄が侵攻後にこの地を整備してからである。縄張りは山本勘助が行ったと言われるが、定かではない。
武田家滅亡後も、多少の改変はありながらも、明治まで迎えた。
近世城郭として使われたにもかかわらず、中世の山城っぽさを強く感じるのは、近世城郭らしい建物や石垣といった遺構が無いからだろうね。
高遠城の縄張り。
三峰川と藤沢川の合流地の段丘上にあり、半輪郭式に縄張り。
法幢院曲輪は、馬出しといったところか。
進徳館の右横にある有料駐車場に車を止め、高遠城を探索した。
二の丸に入ってすぐにある高遠閣。
公園の休息所、地域の集会所として、昭和11年に建てられた建物で、登録有形文化財。
大正・昭和期の旅館建築風で、この威圧的な風格が、高遠城のシンボルとなっている。
二の丸と本丸を繋ぐ桜雲橋。
奥に見える門は、城門ではなく、城下にあった問屋門。
規模は伴わない小さい門だが、橋との相性はなかなかで、雰囲気はいいと思う。
橋から見た空堀。(東側)
大規模な堀で、ウォーキングコースとなっている。
橋から見た空堀。(西側)
底にわずかだが水が溜まっている。
本丸側から見た問屋門。
高遠城では珍しい石垣。藩政時代に整備されたものだろう。
近世城郭っぽさが感じられる数少ない箇所である。
新城神社。
1828年に城主内藤頼寧が、この城で最後を遂げた仁科盛信を祀った神社。
城内には内藤家の先祖の藤原氏を祀った藤原社があり、明治になってこちらと合祀された。
太鼓櫓。
藩政時代の太鼓櫓は搦手門内にあったが、明治の廃城の際、撤去された。
現在の櫓は、明治45年に建てられたもの。
南曲輪に建っている忠魂碑と砲弾型の忠骨蔵。
忠骨蔵は、日露戦争で戦死した方の遺骨や遺品が納められている蔵とのこと。
最初は砲弾型の忠魂碑かと思った。
南曲輪から白兎橋を渡って、法幢院曲輪へ。
元はここに法幢院という寺があったことから、曲輪の名前となったという。
防御性が低い南東部を守る、馬出し的な郭だが、織田軍による攻撃では、ここを滝川一益に落とされ、落城してしまった。
高遠城は地形をうまく利用した堅城ではあるが、さすがに6万の大軍の攻撃は防ぎきれなかった。
織田軍の侵攻に対する為にこの高遠城に入ったのは、武田信玄の5男の仁科盛信。
盛信は最後に腹を切った後に、ハラワタを掴んでぶん投げたという逸話を持つ、勇猛な武将である。
離反が相次いだ武田家の中で、最後まで武田家の気骨を示した武将だ。
三の丸に移築されている城門。
元は鐘楼門だったらしいが、楼部分は削除され、薬医門になっている。
門だけがポツンと建っているので、非常に寂しい風景。
勘助曲輪。
現在は、三の丸と勘助曲輪の堀は埋められて大きな平地となっており、無料の駐車場となっている。
元からあった曲輪ではなく、近世城郭に改変の大手と搦手を入れ替えた際に作られた曲輪と言われている。
高遠城が山本勘助によって縄張をしたと伝わっていたことから、名前の由来となったのだろう。
法幢院曲輪ちかくにある、資料館?の建物。
こんな細い天守にしなくて、もう少し天守っぽくしたほうがよかったような.....
高遠城の桜は満開時には圧倒的な光景となり、ぜひ見てみたいのだが、あの人ゴミと渋滞っぷりは、行く気がそがれてしまう...
バスツアーで行くのが良いのかもね。
東金城/東金第一中隊陣地(千葉県東金市) [城]
もし1945年8月15日が終戦とならず、戦争が継続していたら、
連合軍の日本上陸作戦の発動やさらなる原爆投下が実行されていただろう。
その上陸作戦であるが、鹿児島から上陸し北上していく「オリンピック作戦」と、
相模湾および九十九里浜から上陸し関東を制圧する「コロネット作戦」が計画されていた。
これに対し、陸軍は各所に決戦陣地を構築していった。
今回は、九十九里浜から上陸する連合軍に対して構築された東金陣地で第一中隊が展開したエリアの遺構を見に行った。
八鶴湖越しに見える山は東金城址で、そこが東金陣地の1つがあったところ。
八鶴湖駐車場に車を停めて、本漸寺と東金高校の間のルートから登城した。
入口にある門の脇の石柱。
東金高校は、かつて東金御所と呼ばれた、将軍の鷹狩りの際に立ち寄る御殿があったので、御殿山と呼ばれている。
門を過ぎると、防空壕群が現れる。
中を覗きこんだら、中で曲がっていたので、壕は中で繋がっているのかもしれない。
確認できた入口は、5ヶ所。
進みます。
右側に石碑が並んでるのだが、この山はこのような石碑がとにかく多いのだ。
進みます。
下調べでは、階段がかなり荒れていたのだが、手入れされていた。
昇りきったところにある、物見台でも建っていたであろう小さな郭。
ベンチが置いあって休息場になっているのだが、眺めも良く無いし、座って休息しようという思いにはならなかった。
この郭にあった「御殿山神社奥院」の石碑。
この郭と堀切を挟んである郭を登ると主郭と思われる山頂にでる。
ここからあるものを探すべく、藪の中を目を凝らしながら歩きまわる。
主郭から東側に伸びる道を進むと、ありました目当てのモノが。
それがコレ
半地下式の観測所。
入る前に、前方に回りこんでみる。
上部には土が盛られ、半分以上は地中にある。
この正面は急斜面で、正面からこれを発見するのは困難になっている。
これを撮影するのも、斜面の木に足を引っ掛けて、どうにか全容を撮った。
敷居?は鉄柱となっている。
では入ってみる。
思ったよりキレイである。コマめに清掃されてるようだ。
せっかくなので、観測してみよう.....
木っ....邪魔~
中の壁にはコノ手の落書きが数点。
観測所を見て満足したので、戻ることにした。
このエリアには連隊砲と野砲が設置されていたのだが、全く場所がわからないので、他の陣地探索の際に探してみよう。
先の物見台の郭の南側にある堀切。
序盤で分岐する、東金高校の裏手を進むルートを行ってみる。
「大東亜戦争遺跡蛸壺」と掘られた石柱。
この周辺をかなり探索したが、それらしき穴は発見できず。
もう埋もれてしまったのか。
さらに進むんでいくと
休息エリアに出る。
先の物見台の休息エリアよりは広く開けているのだが、木々が展望を邪魔している。
ここは眺め良さそうなだけに残念だ。
奥に見える高台に物見台くらいあってもおかしくない。
連合軍の日本上陸作戦の発動やさらなる原爆投下が実行されていただろう。
その上陸作戦であるが、鹿児島から上陸し北上していく「オリンピック作戦」と、
相模湾および九十九里浜から上陸し関東を制圧する「コロネット作戦」が計画されていた。
これに対し、陸軍は各所に決戦陣地を構築していった。
今回は、九十九里浜から上陸する連合軍に対して構築された東金陣地で第一中隊が展開したエリアの遺構を見に行った。
八鶴湖越しに見える山は東金城址で、そこが東金陣地の1つがあったところ。
八鶴湖駐車場に車を停めて、本漸寺と東金高校の間のルートから登城した。
入口にある門の脇の石柱。
東金高校は、かつて東金御所と呼ばれた、将軍の鷹狩りの際に立ち寄る御殿があったので、御殿山と呼ばれている。
門を過ぎると、防空壕群が現れる。
中を覗きこんだら、中で曲がっていたので、壕は中で繋がっているのかもしれない。
確認できた入口は、5ヶ所。
進みます。
右側に石碑が並んでるのだが、この山はこのような石碑がとにかく多いのだ。
進みます。
下調べでは、階段がかなり荒れていたのだが、手入れされていた。
昇りきったところにある、物見台でも建っていたであろう小さな郭。
ベンチが置いあって休息場になっているのだが、眺めも良く無いし、座って休息しようという思いにはならなかった。
この郭にあった「御殿山神社奥院」の石碑。
この郭と堀切を挟んである郭を登ると主郭と思われる山頂にでる。
ここからあるものを探すべく、藪の中を目を凝らしながら歩きまわる。
主郭から東側に伸びる道を進むと、ありました目当てのモノが。
それがコレ
半地下式の観測所。
入る前に、前方に回りこんでみる。
上部には土が盛られ、半分以上は地中にある。
この正面は急斜面で、正面からこれを発見するのは困難になっている。
これを撮影するのも、斜面の木に足を引っ掛けて、どうにか全容を撮った。
敷居?は鉄柱となっている。
では入ってみる。
思ったよりキレイである。コマめに清掃されてるようだ。
せっかくなので、観測してみよう.....
木っ....邪魔~
中の壁にはコノ手の落書きが数点。
観測所を見て満足したので、戻ることにした。
このエリアには連隊砲と野砲が設置されていたのだが、全く場所がわからないので、他の陣地探索の際に探してみよう。
先の物見台の郭の南側にある堀切。
序盤で分岐する、東金高校の裏手を進むルートを行ってみる。
「大東亜戦争遺跡蛸壺」と掘られた石柱。
この周辺をかなり探索したが、それらしき穴は発見できず。
もう埋もれてしまったのか。
さらに進むんでいくと
休息エリアに出る。
先の物見台の休息エリアよりは広く開けているのだが、木々が展望を邪魔している。
ここは眺め良さそうなだけに残念だ。
奥に見える高台に物見台くらいあってもおかしくない。