赤坂氷川神社(1) [江戸の風情]
赤坂4丁目あたりに鎮座していたが、江戸幕府8代将軍吉宗の命により、現在地に遷座して現在に至っている。
この地は赤穂藩浅野家の上屋敷があったことから、浅野邸跡として史跡となっている。
史跡の説明板の奥に鎮座している摂社。
塞神社・秋葉社・鹿嶋社・八幡社・天祖社・春日社・厳島社・諏訪社・金比羅社が合祀されている。
包丁塚。
赤坂周辺は昔より飲食店が多く、包丁も多く使われてきたことから建立されたとのこと。
明治15年建立の獅子山。
霊窟らしき穴あり、何匹もの子獅子がありと秀作な獅子山だ。
ここ氷川神社は狛犬の宝庫で、狛犬マニアにはたまらない神社なのだ。
二の鳥居。
その両脇にはもちろん狛犬が。
弘化3年建立の江戸獅子タイプの狛犬。
前髪のカールが特徴的。
拝殿前の薬医門の神門。
門脇の壁は、丸窓付きの築地塀。
雰囲気いいよね。
で、その築地塀の前にいるのが.....
最強の萌え萌えな狛犬。
萌え~....ヤバいよね(w
宝珠は欠損しているが、付いてたらさらに萌えな狛犬だった気がする。
こちらに来たら、必ずチェックして頂きたい。
門をくぐって左側に絵馬堂。
さらに隣に神輿庫。
銅葺屋根で権現造りの拝殿。
この拝殿は1730年に吉宗が建立したもの。
社務所。
ムクリの破風型の玄関。
社務所の正門。
釘貫門と築地塀のコラボがいいですね。
社務所の脇門。
築地塀の塀重門ってものいいね。
訪問したのは春先だったが、ここにあるってことは半年以上も残っていたんだね~
その他の摂社や脇参道は次回へ。
報土寺(港区赤坂) [江戸の風情]
赤坂の三分坂に築地塀が印象的な報土寺がある。
報土寺は1614年に赤坂一ツ坂に創建されたが、幕命により1780年に現在地に移転してきた。
この築地塀はそのころ造られたものとのこと。
報土寺は、「歴代力士で最強は?」と言う質問に常に名が挙がる名力士「雷電為右衛門」の墓所がある。
雷電の戦績は、通算成績254勝10敗(勝率は9割6分)と驚異的で、最強説がささやかれるのは当然だろう。
また、あまりの強さに突っ張り、張り手、閂、鯖折が禁手であったという逸話さえ残っているほどだ。
今の大相撲で必要なのは、このような日本人力士だな......
鐘楼。
初代の鐘楼、梵鐘は雷電の寄進のものであったが、形が異様であったことと、幕府に不届であった為、取り壊されてしまった。
明治になってから2代目が造られた際、雷電寄進時の鐘銘が写されたとのことだ。
この2代目、大東亜戦争時に金属供出令で供出したのだが、平成いなってから戻ってきたというミラクルな体験をしている。
稀にこのように元に戻ってくることがあるが、やはりほとんどが銃弾や戦車の一部になったと思うと悲しい限りだ。
今の鐘楼は平成になってから再建されたもの。
この鐘楼の一番鐘をついたのは、
初代・・・雷電
2代目・・・大砲(18代横綱)
2代目鐘楼再建・・・千代の富士(58代横綱)
と、蒼々たる面々だ。
モルタルの本堂。
本堂にあったトーテムポール?
よくみると....下から金太郎、熊....キツネ、ウサギ....一番上が折れててわからない。
で、檀家の子供達が作ったのかな。
境内の石像群。
築地塀以外で江戸を感じさせてくれる少ない遺構といえる。
右から聖観音碑、地蔵様、聖観音碑(基壇のみ)
雷電の手形を掘った石。
雷電の手形の写しから作ったとは思うが、元は何なんだろう。説明があればいいのだが。
雷電の墓。
東京ミッドタウンの裏、赤坂の賑やかなエリアの中に、このような江戸の雰囲気があるっていいよね。
江戸の坂(麻布周辺) [江戸の風情]
この辺りの道や坂はほぼ江戸時代から変わっておらず、江戸切絵図と現代の地図と比較すると面白いほどそのまんまだ。
賑やかな六本木から下町な雰囲気の麻布十番など、歩いていてとても楽しく、何度も訪れたくなるコースです。
六本木~麻布の江戸坂コース
六本木駅→『市三坂』→『行合坂』→『落合坂』→『狸穴坂』→『暗闇坂』→『一本木坂』→『大黒坂』→『七面坂』→『仙台坂』→『奴坂』→『薬園坂』→『新坂』→『芋洗坂』→六本木駅
六本木駅から246を東京駅方面に進むとすぐに緩やかな坂となり、それが『市三坂』である。
ここは江戸の坂ではなく、明治20年代に開かれた坂で、市兵衛町と三河台町の両頭文字から取られて名付けられた。
あまりこちら方面に歩くことはないので意識しなかったが、区の説明柱が立っていたとは...
市三坂進み、久国神社を参拝して後に246を渡って、六本木駅方面に戻ると『行合坂』がある。
2つの坂がすり鉢状に行き合っていることが由来とのこと。
この行合坂の底?にあたるところからさらに横に下る坂がある。
『落合坂』と呼ばれる坂で、我善坊谷へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が行き合う位置にあるので、落合坂と呼ばれたとのことだ。
落合坂を下らず、行合坂を上り六本木交差点まで戻り、外苑東通りをAXIS方面に歩いていくと、『狸穴坂』がある。ちなみに、まにあなざかと読む。
道の左側がロシア大使館なので、坂の写真をバシバシ撮っていると警備の目が気になる。
狸穴坂を下り、しばらく歩くと暗闇坂が現れる。
樹木が暗いほど生い茂った坂であったので、この名が付けられた。
結構長く、カーブの続く、いい感じの坂。
坂をいい感じと言ってるのも何か変だが、江戸の坂を意識して歩いていると、こういう坂に遭遇すると、ニヤっとしてしまうのだ。
最後に見えてくる建物は、麻布ヒルズというマンション。
このあたりのランドマークで、このあたりで写真を撮ってると必ず入ってくる物件だ。
暗闇坂を上っていくと道は突き当たり、左側の下り坂が大黒坂で、右側の緩やかな登り坂が一本木坂となっている。
一本木坂は、平将門を攻めた源経基がここの民宿に泊った際に、着ていた装束を松の木にかけて出発したことに由来する。
今回は大黒坂を下ります。
大黒坂は、坂の途中にある大法寺の大黒様に因む。
大法寺の大黒様は、港七福神。
大黒坂途中にある、賢崇寺の参道の坂。
賢崇寺は肥後佐賀藩鍋島家の菩提寺で、鍋島家墓所は圧巻。
大黒坂の途中に分岐する『七面坂』
坂の途中にあった本善寺の七面大明神の木造が安置されていたために名付けられた。
本善寺は、戦後に五反田に移転した。
大黒坂を下ってから右折し、善福寺の前を通り、突き当りを右折するとそのが『仙台坂』である。
坂の南側一帯が仙台藩伊達家の下屋敷だったことから名付けられた。
今では韓国大使館となっており、これまた警官が所々に立っており、物々しい。
仙台坂を上りきると、先に出た一本木坂と合流する。
仙台坂を上って左折すると『奴坂』がある。
「竹が谷の小坂で谷小坂、薬王坂のなまりでやつこう坂、奴が付近に多く住んでいた坂の3つの説がある。」とのこと。
程よい急な坂だがこの坂は下らず、そのまま進みます。
そのまま進むと坂となるのだが、そこが『薬園坂』である。
寛政年間に坂の西部に幕府の御薬園があったことから名付けられた。
薬園坂の途中にある、これまた雰囲気抜群な坂が『釣堀坂』だ。
谷間に釣り掘があったことから名前の由来だ。
薬園坂を下ると明治通りにでるのだが、その通りを右折し光林寺方面に歩いていると、脇道に『新坂』と呼ばれる緩やかな坂がある。
出来た当時は新しくできた坂であったことから、この名が付いたのだが、できたというのは元禄12年なので、もはや新坂ではないような....
この後、光林寺、天源寺に立ち寄って、六本木まで戻った。
で、六本木ヒルズの裏手、アマンドから麻布十番駅方面に下る坂『芋洗坂』にも行ってみた。
昔、この付近に職場があり、この周辺はよく歩いたもんだ。
天源寺から六本木までは結構距離があるので、最寄の駅の広尾駅まででもいいかもしれない。
江戸の坂(赤坂周辺) [江戸の風情]
全力坂やタモリ倶楽部なんかで取り上げられているので、それなりに知られているのだが、
ぶらりと散歩していると、その数にあらためて驚かされる。
江戸時代、江戸の町には現在のような番地が無かったので、寺社や坂が番地の役目を担っていたというわけ。
寺社巡りをしてるときに出合った江戸の坂を紹介するよ。
今回は赤坂周辺の坂。
ちなみに赤坂という坂は無いというお決まりのネタは置いといて....
千代田線の赤坂駅から氷川神社へ向い、ミッドタウン裏の檜町公園の横を通り、TBSの裏手の円通寺坂を下り、青山通りへ抜けるコースで、途中に寺社に寄りながらでおおよそ2時間の手頃なコースなので、散歩や運動のウォーキングとしても程よいのでオススメです。
赤坂駅から氷川神社の方向に進むと、まず遭遇するのが「転坂」
昔は道が悪く、通行人がよく転んだことから名付けられた。
坂の出入り口には区が立てた説明木柱があるのだが、工事の車が停まっていて、坂といっしょに撮れなかった。
下って左折していくと氷川神社につくのだが、今回は坂を下らず進みます。
転坂を下らず直進すると、「南部坂」がある。
名前は江戸の初期に盛岡藩南部家の屋敷があったことに由来する。
のちに険しい道の為、難歩坂とも書かれたとのこと。
このように幾つもの名を持つことがよくある。
右側の上はアメリカ大使館宿舎なので、この付近には外人が多い。
ここでも南部坂を下らず、右折して氷川神社に向います。
氷川神社の表参道の手前にある「氷川坂」
その名の通り、氷川神社に由来する。
先の転坂を下ると、この坂の先と交わる。
氷川神社から東京ミッドタウン方面に下る坂が「檜坂」
ヒノキが多く、檜屋敷と呼ばれた毛利屋敷に沿う坂であった為、こう呼ばれた。
東京ミッドタウンや檜町公園は、長州毛利家中屋敷跡だ。
ちなみに六本木ヒルズは、分家の長門藩毛利家の上屋敷跡である。
檜坂から乃木坂方面に向わず、TBS方面に向うと報土寺に辿りつく。
その報土寺の練塀沿いが「三分坂」である。
三分とは、坂の荷物あと押し料金とも、坂下にあった渡し船からの荷揚げ料金からついたとも言われている。
荷揚げって...どこだ?
古地図にて探してみたが、わからなかった。
三分坂を上り、突き当たりを左に曲がって、そこから1本目を右折すると、緩やかで長い坂がある。
ここは「円通寺坂」で、坂上にある円通寺にちなむ。
この円通寺坂は、歩いていてなんか気持ちいい坂だ。
この坂は、TBSビックハットの裏道。
ちなみにビックハットは、安芸浅野家の中屋敷跡地だ。
円通寺坂を下り、浄土寺から青山通り方面に歩くと階段に出会う。
この階段が「丹後坂」で、武蔵金沢藩主米倉丹後守の屋敷があったことに由来する。
丹後坂を下り、そのまま進むと「牛鳴坂」がある。
路面が悪く、車を引く牛が苦しんだことから名付けられたようだが、
緩やかな坂なのでよっぽど路面が悪かったんだろうね。
江戸の坂ではないが、それっぽい雰囲気の赤坂不動尊の参道の坂。
青山通りを渡り、豊川稲荷の脇にある「九郎九坂」
赤坂一ツ橋町の名主秋元八郎左衛門の先祖九郎九が住んでいたことが由来。
このときの坂巡りはここまでだが、この後赤坂見附跡、食違い見附跡、四谷見附跡を見て回った。
何気ない坂でも、それぞれに名前と由来・歴史があり、なかなか面白いもんだね。
上野東照宮(台東区上野公園) [江戸の風情]
3大ナントカといえば、2つまでは確定なんだが、あと1つは言ったもの勝ちって感じ。
東照大権現こと、徳川家康を祀った東照宮で、三大東照宮と言えば....
日光東照宮、久能山東照宮・・・・
3つ目としてよく挙げられるのが、上野東照宮?
その上野東照宮が2009年1月より、4年にもわたる修築に入った。
修築後は、さぞかし金ピカの勇姿に生まれ変わるだろうが、
今は完全に覆われて、あの年季の入った社殿をみることができない。
生まれ変わる前の姿を残しておくこととするよ。
上野公園内、上野動物園の隣に上野東照宮がある。
上野公園内に東照宮があることは、意外に知られていない。
参道には、様々な大名から
この辺りは、江戸初期は藤堂高虎の敷地で、この東照宮は高虎によって創建されたもの。
その後、家光によって改築されたのが、現在の社殿である。
由緒としては、三大の名にふさわしいと言える。
1651年建築の唐門。
壁の四額面に彫られている「昇り龍と降り龍」は、左甚五郎の作。
唐門は、現在でも見る事ができる。
拝観料を払うと、透塀に沿って社殿を回り、中に入る。
金箔がハゲハゲの社殿。
唐門と同年の1651年建築。
上野戦争、関東大震災、東京大空襲といった大災害を潜り抜けて、
現存していることは奇跡としか言えない。
この金箔ハゲハゲの年季入りまくり状態が、イカす。
金箔だけでなく、極彩色も色あせて、レトロ感が何とも言えない。
修築されて、日光のようなピッカピカの社殿になってしまうのだろう。
ちょっと寂しい感じもする....
現存する五重塔。
上野動物園の敷地内にあり、東照宮からは木が邪魔でうまく写せない。
廃物希釈の嵐が吹き荒れる中、この五重塔は寛永寺の所有となり破却を免れ、現在は東京都の所有。
様々な災害を潜り抜けた都内では数少ない現存物件である。
四谷三丁目寺社巡り [江戸の風情]
今回は、四谷三丁目近辺の寺社巡りである。
四谷と言えば、四谷怪談とすぐ連想するが、もちろんお岩さんゆかり?の寺社も存在し、
他にも江戸時代からの寺社も多く現存し、史跡巡りが楽しい界隈だ。
それらの寺社には、服部半蔵、長谷川平蔵、榊原健吉等、歴史ファンならずとも知ってるような、
アクション系のメジャーな方々が眠っており、講談物や時代小説の世界を身近に感じることができる。
ただ、23区内の寺社全般に言えることだが、関東大震災や戦災、土地開発によって、旧態を留めているところは皆無であり、
マンション等の建造物に圧迫されてたり、堂宇が少なくて、寂しい限りだ。
ま、東京の寺社巡りは、小さな情緒や発見が楽しいんですがね。
今回も、榊原健吉の菩提寺を寺前にあった解説板で知ったときは、剣豪マニアな自分だけに、
驚きとともに、ミーハーではあるがうれしくなった。
あとこの界隈は、非常に坂が多いため、アップダウンを繰り返すのが特徴だ。
(戒行寺坂)
そんなにキツくはないので、坂の上下に建てられている坂名の由来が書かれた看板を見て楽しもう。
今回、田宮神社を見過ごしてしまうという痛恨な失態をしてしまったので、再訪する予定である。
後日、於岩稲荷田宮神社に訪問し、記事もアップしたので、この下記ルートに追記します。
■四谷三丁目寺社巡り
丸の内線四谷三丁目→
□於岩稲荷陽連寺(四谷怪談の元になったとされる田宮家の敷地に建てられたという)
□於岩稲荷田宮神社(田宮家の屋敷社の稲荷で、一度新川に移転したが、また元の地に帰ってきた)
□本性寺(太田道灌よりの毘沙門天が伝わる)
□法恩寺
□西應寺(最後の剣客と言われる榊原健吉の菩提寺)
□勝興寺(遠江横須賀藩の菩提寺)
□戒行寺(鬼平として有名な長谷川平蔵の菩提寺)
□宗福寺(四谷正宗と言われた名匠源清麿の菩提寺)
□信寿院
□蓮乗院
□西念寺(服部半蔵が徳川信康供養のために開基)
□愛染院
□須賀神社(四谷の天王様と親しまれた)
□妙行寺(四谷の赤門寺)
□真英寺
□日宗寺
□法蔵寺
□祥山寺(伊賀者を供養したことから忍者寺と言われた)
→四谷三丁目
龍光寺(文京区本駒込) [江戸の風情]
本駒込駅前の交番横の小道を進み、少し進むと右側に脇道があるので、そこを曲がる。正面に小さな公園があり、そこを右に曲がると、そこが龍光寺の参道となっており、龍光寺へ向える。 | |
石造の門柱のみの山門。 1632年の創建で、開基は、讃岐丸亀城主京極高知と肥前唐津小笠原忠知。 2大名の開基の寺ではあるが、明治の廃仏で荒廃し、廃寺寸前であったらしい。 今では、堂宇は新築され、境内はきれに清掃してあり、明るい感じである。 | |
金毘羅堂。 丸亀藩の菩提寺だから、こちらにも勧請されたのだろう。元は、龍光寺の境内社で、参道前にある公園あたりあったが、戦災で焼失。先代の和尚が、金毘羅権現を肌身離さなかった為、焼失を免れたとのこと。戦後60年経って、平成19年に金毘羅堂を再建した。 今では全く面影もないのだが、根津には岡場所(歓楽街)が200年近くあったので、当時の金毘羅社の縁日は非常に賑やかだったようだ。根津の岡場所は、明治21年に加賀藩邸地に帝国大学が設立される際、州崎に移転させられた。 | |
面白みのない、コンクリの本堂。 右側に庫裏、左側が墓地となっている。 | |
墓地に入って、左側にある唐津小笠原家の廟所。 元は3箇所に分かれていたが、最近改修整備されたらしく、ここにまとめられたようだ。 4代から11代の藩主と子息の墓で、すべて同形の笠塔婆。 | |
小笠原家廟所の手前に、石門と透垣に囲まれた宝篋印塔がある。3代藩主長祐の室、真流院の墓である。 真流院は、秋月藩初代藩主黒田長興の娘。 | |
墓地に入って、右側にあるのが丸亀京極家の廟所。 こちらも幾場所に分かれていたが、平成17年に改修整備されて、1箇所にまとめられた。 3代藩主高知の室・養性院の宝篋印塔を中央に、その手前に以降の藩主、室、子息の墓が左右2列に配置されている。 京極家の墓は、唐破風付き石塔が基本になっているようだ。 大名墓について参考にしている「徳川将軍家・大名の墓」によると、取材当時は雑草が生い茂り、かなり荒れており、入るのに戸惑うほどで、墓も傾いているものや基壇に植木鉢が置かれている有様だったようだ。 いまでは、その光景を全く感じさせない程、整備されている。 | |
中央の3代藩主高知の室の墓は、石門と透垣がある宝篋印塔。 養性院は、津藩藤堂高次の娘。 | |
京極家廟所前に三宅観潤と栗山潜鋒の墓がある。 江戸中期の儒学者で、水戸光圀に仕えて、「大日本史」の編集に従事した。2人とも彰考館の総裁になっている。 | |
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於岩稲荷田宮神社(新宿区左門町) [江戸の風情]
あの東海道四谷怪談のお岩さんの名を冠する稲荷社で、四谷怪談のドラマや映画の撮影前に御参りする神社。
この有名な戯曲のせいで、話がちょっとややこしいのだが、お岩さんとこの神社を簡単に説明するよ。
お岩さんその人は実在した人物で、御家人田宮家の1人娘である。
しかし、怪談話にあるような人間ドラマはなく、田宮家の養子で夫の伊織とは仲のいい夫婦であったという。
財政的に苦しかった田宮家を、お岩さんが家計をうまく切り盛りしたので、家が建て直ったということと、
屋敷内の稲荷社を熱心に信仰していたことが結びつき、この稲荷社のご利益があったから家運が上がったと評判になり、
この稲荷社が繁盛稲荷として有名になったのだ。
その後100年経った頃、田宮家の菩提寺である妙行寺の境内に於岩稲荷として移された。
ここまでが実話とされるところなのだが、一般的には知られていない部分だ。
鶴屋南北がこの評判のお岩稲荷の縁起話と実際に起った全く関係のない事件をミックスして作ったのが、
戯曲「東海道四谷怪談」であり、実際のお岩さんとは全く違うのである。
で、神社としてややこしいのは、明治以降の話。
お岩稲荷は、明治12年に焼失してしまい、中央区新川に移転した。
昭和27年に、世田谷玄照寺の和尚が、現在の田宮神社の向いの場所に、お岩さんの木像を祀って、
於岩稲荷陽雲寺を創建したので、田宮家や氏子の意向により移転していた田宮神社も故地に戻ってきた。
そんで、どちらが於岩稲荷なのかが問題になってきたのだ。
本来の於岩稲荷、そして於岩稲荷の跡地にあるのが田宮神社で、
お岩さんが生まれた場所で、産湯に使った井戸があるところが陽雲寺。
どちらも所縁の場所ってことでいいと思うよ。
ちなみに............
於岩稲荷といっても、そもそもお岩さんは祟り神ではなく、しかもお岩さんを祀ってるわけでもないので、
よくある祟り話なんてのは、無いんだよ。
□於岩稲荷陽雲寺の記事
妙定院(港区芝公園) [江戸の風情]
宝珠院で閻魔詣したら帰ろうと思って赤羽橋駅へ向っていたら、妙定院の真新しい堂と練塀が見えたので、寄って見た。まったくチェックしてなかったのだが、なかなか見所の多く、何か非常に得した気分である。 | |
山門は薬医門。 脇は練塀となっている。このキレイな練塀は江戸時代からの遺構で、他の場所にあったのを移築したしたもの。練塀の移築って、瓦以外は現在のものだろうから、ほぼ新築なのでは。 | |
本堂。新木と白壁がキレイだ。 意匠がシンプルなので、よりキレイさを強調しているのかもしれない。 キレイキレイと、どこかの石けんの宣伝みたいに連呼してしまっているが、まず第一印象はこう感じるのだ。 この妙定院は、徳川9代将軍家重の大導師を勤めた、増上寺46世の妙誉定月僧正によって、家重の菩提のために開基した寺である。 また、明蔵を有して仏典研究・学問研究・念仏道場として知られていたという。 堂宇は空襲によって、2つの蔵を除いて焼失してしまったが、災難はこれに留まらず、本堂の真後ろに首都高が開通したことにより、騒音、振動に悩まされ続けたという。 本堂再建にあたっては、昔ながらの建築意匠に最新の耐震技術を取り入れたとのことだ。 | |
江戸から現存している熊野堂。 熊野三社大権現を本尊として祭られていた鎮守社。 ここまでピカピカになってしまうと、どれだけ古材を使って修築したのかと思ってしまう。 | |
浄土堂。こちらも江戸からの現存物件。 この堂は境内の他の場所から解体移築された。 練塀と同様、蔵の解体といっても、ほぼ新築とか復元といったほうがいいかもしれない。ま、蔵そのものの寿命は、実は非常に短く、100年もてば良い方だ。そもそも長く使うには、修築、改築を繰り返すものなのである。 | |
1870年に作られた仏足石。 上面の千幅輪相(お釈迦様の足裏の相)が彫られており、側面には経典が刻まれている。 千幅輪相は彫りが浅いのと、石の模様で分かりづらい。 | |
仏足石の隣にあった石塔の一部。 周辺に三十三観音と思われる彫り物がある。 これだけでは三十三変化しないので、おそらくこの彫りは3段くらいあったのではないかと思う。 完成形で見てみたかった石塔だ。 | |
境内の外には、石造の災除地蔵が祀られている。 戦災前までは木造丈六地蔵像で、境内の地蔵堂に安置されていたという。その地蔵様は、戦災で焼失してしまったが、焼失を惜しむ声が多かったことから、焼け残ったその地蔵の守護札版木をもとに石像として再建されたとのこと。 表情が非常にやさしいお地蔵様で、惜しむ声が多かったのがわかる気がする。 | |
墓地に変わった墓石が見えたので、じっくり見たかったのだが、墓域では多くの人が工事作業をしていたので、今回は見送った。あとで調べたら、妙誉定月僧正の墓だったらしく、また近くに行ったら再訪するつもりだ。 |
宝珠院(港区芝公園) [江戸の風情]
東京タワーを愛宕下通りを挟んだ反対側に宝珠院がある。 1685年に弁天堂を建立と同時に創建された、増上寺の子院。 門や塀がなく、寺院というより公園といった感じである。港区七福神の弁才天、区文化財の閻魔像が祀られている。 | |
朱色が鮮やかな弁天堂。 改築は繰り返しているらしいが、建立時のまま現存する建物とのこと。 賽銭箱は、堂の回廊部(階段を上がったところ)に埋め込まれており、堂に入る際にちょっとまたぐ感じなので、ちょっとためらってしまう。 こちらの弁財天は、元は除波弁才天と呼ばれていたが、源頼朝・執権北条そして徳川家康に信仰され、家康がその後幕府開府という大願を達成したことから、開運出世弁才天と名付けられた。 | |
住職さんに堂に上げてもらい、弁天様を拝観させて頂いた。 前立の八臂弁財天。桃山~江戸初期作といったところだろうか。 周りには眷属の十五童子と大黒天、毘沙門天が祀られている。 厨子の中には鎌倉作の弁財天が祀られている。4月15~17日に開帳される。 ラメ入りっぽい塗装が、ちょっと不思議な感じ与えている。 | |
庫裏と一体化している閻魔堂には、1685年に作られた閻魔様が祀られている。 脇には司命と司録を従え、人頭杖も安置されている。 人頭杖とは、罪の重さを判定する装置で、忿怒相(赤)の口から火を吐けば重く、穏和相(白)の口から白蓮華が生ずれば軽い罪という。 境内の風景 上左)本堂 上右)池。弁天池かな? 下左)弁天堂前の地蔵堂 下中央)かえる 下右)妙見堂。妙見菩薩とは、北斗七星を神格化した神である。 |