龍岡城(長野県佐久市) [城]
田野口陣屋(龍岡城) 大給松平乗謨が1863年に三河奥殿藩から居所を田野口(佐久市)の所領に移し、その際築いたのが、田野口陣屋である。 築城に際し、洋式の稜堡式築城技術を取り入れた為、函館と同様の五稜郭となっている。 陣屋だけあって、函館五稜郭程の規模はなく、実戦的であるとは言えない。 縄張りこそ洋式城郭であるが、石垣、虎口、土塁の構造は、日本式の城郭技法で、良いモノを取り入れつつ、旧来のモノと融合させていく日本人っぽさがよく現れていると言える。 日本に2つしかない五稜郭、有名な函館ではない方の五稜郭を見に行ってきたよ。 | |
現地近くの道路標識。 龍岡城は、田野口陣屋の別名。 厳密には、明治元年に龍岡藩と改称したので、陣屋も龍岡城(龍岡陣屋)と呼ばれた。 | |
現地の説明板。 左上に書かれているように、五稜郭である。 水堀は、図の水色部分で、半分しか完成しなかった。 松平乗謨は、藩の軍制を早々にフランス式にするなど、軍の近代化に積極的であった大名である。 この稜堡式城郭もその考えから築かれたものであるが、2,3万石程度の大名が、しかも戦略的拠点でもないこの地に、小さいながらもこの規模の稜堡を築く目的がわからない。ま、面白いけどね(笑) | |
現在、城址は小学校となっている。 廃藩後、すぐに小学校となった為、建造物を除いては、石垣や土塁の保存状態はいい。 この橋の先が、旧大手門である。 | |
大手門から中に入らず、大手門の橋から反時計周りに周辺を見てみる。 橋からみた堀。 堀幅は5m程度。気持ち程度の防御性だ。 堀の内側の石垣には、武者返しが付いており、石垣の上に土塁が築かれている。 | |
稜の先端部から大手門方向を見る。 城内に見える屋根は、招魂社。 石垣に武者返しは、品川台場でも見られるが、時代的に考えるとそれを参考にしたもかもしれない。品川台場の場合は、波による土塁崩れ防止なのだが、平城での稜堡なら土塁だけでいい。ビジュアル重視ってことですかね。 | |
先端部を越えると旧黒門の土橋があり、その土橋から来た方向を見る。 先に見えるのが稜部(尖っていて、砲台が置かれる部分)。 | |
土橋の反対側。こちらから半分は堀が未完成である。 | |
土橋を渡ると黒門と呼ばれる門があった。 石垣はその黒門のもの。 ここから城内(小学校内)に入ってみる。 | |
入って右側にあるのが、陣屋の唯一の現存建造物の台所櫓。 かなり大きい。よく現存したものだと、感心する。 ちょうど内部見学会の団体がいたので、紛れて中に入った。 その点ではラッキーだったが、その時は常時見せてもらえるものだと思って、じっくり見てたら閉められてしまって、臨時的に内部を見せていたことを知った。 だから写真は取れなかったのだ.... | |
台所櫓の正面方向に橋が見えたので、運動場を横切って向ってみた。 橋から北の山の方向を見る。 | |
橋から南側を見る。 正面に見えるのは小学校の体育館。 校舎方向に歩いてみる。 | |
橋を渡り城外に出て、稜の先端方向を見る。 | |
先の方向を城内側から見たところ。 ここの小学校に通っていたら、調子に乗って遊んでて、この堀に5回は落ちてるだろうね、オレは(笑) | |
先の稜の先端部を過ぎた、体育館の裏手あたりから、歩いてきた先端部方向を見たところ。 堀はここまでである。 | |
大手門入って、右側にある招魂社。 藩やこの地域の者で戊辰戦争から大東亜戦争までに亡くなった人を祀ってある。 | |
ちょうど訪れた時期が紅葉の季節で、多くの人が写生していた。 城内(校内)では子供達が野球をしており、元気な声が響いていた。 午前中曇りだったのが、快晴となり、非常に気持ちいい感じである。 新海三社神社が近くにあるのだが、このときは訪問しなかったので、またこの辺りを探索したい。この後、R141を南下していき、須玉ICで中央道に入ったのだが、天気も良かったこともあり、ドライブ日和だった。 |
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