大坂城(大阪市中央区) [城]
豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に築いたのが、大坂城である。
いまさら言わなくてもわかるって。
天下の巨城も大坂の陣にて落城し、その後幕府の直轄地となり、
天下普請で豊臣大坂城に盛土し、新たに石垣を築いたのが現在の大坂城である。
昭和6年に建造された天守閣は、当時としては最新技術であったコンクリート建築で、
徳川期大坂城の天守台に豊臣期風天守閣が建てられた。
豊臣期の遺構は地中にしかなく、公園内の地表には徳川期の遺構だけで、
太閤さんのお城と親しまれているのは、ちょっと微妙な感じである。
もう3年も前になるが、帰省する際に新大阪で降りて、大坂城へ行った。
大阪には遊びでは行った事がなく、この大坂城がはじめての観光であった。
JR環状線大坂城公園駅で降り、大坂城ホールの脇を通って、大坂城へ向う。
このルートで行くと、青屋門の枡形が出てくるのだが、まず目に入るのは東外堀の大迫力の石垣である。
青屋門の第一の門跡。
門に向って登り坂になっており、規模、形態といい最終形と言える。
二の門である櫓門。
大阪大空襲で被害にあったが、昭和45年に残材を使って、復元された。
本丸の石垣を見ながら、南下するように歩く。
しばらく歩くと、一番櫓と呼ばれる二重櫓が現れる。
南外堀には、一番~七番までの櫓が建ち並んでいたが、現存するのは2基のみ。
もう1基の六番櫓。
1628年に創建された櫓である。
大手門の二の門である櫓門。
大手門一の門の高麗門。
1620年の創建で、1783年に落雷で破損し、1848年に大修築されたもの。
この門の控柱の継ぎ手が面白い。
手前がアリ継ぎ手で、横が山型となっており、一見どうやって連結しているのかわからない。
前に唐招提寺の修築の番組で伝統継ぎ手の特集を見たんで、このトリックは知っているのだが、
この箇所にここまで凝る必要があるのか?と疑問になりそうだが、
そこが大工の粋であり、ツッこむのは野暮ってことでしょうな。
大手門と連なる千貫櫓。1620年の創建。
名前の由来は、織田信長が本願寺攻めの際になかなか落とせない櫓に対して、
「あの櫓を落とせるなら、千貫文与えても惜しくない」と言われるエピソードからだが、
大手門に殺到する敵に横矢を与える位置のこの櫓に、そのエピソードを当てはめたのだろう。
残念なことに西の丸が休園で入れなかったので、本丸へ向う。
本丸の入口である桜門。
明治になって、陸軍によって建てられたもの。
本丸の南側は空堀となっている。
こんなに広大な空堀は見たことない。
池田忠雄が運んだと伝わる、城内最大の石。
天守閣前に現存する金蔵。
海鼠塀寄棟の土蔵造り。
結構面白い物件なのだが、如何せん天守閣の前の為、ほとんどがスルーだ。
昭和6年に建てられた、ランドマークの天守閣。
豊臣期の天守を目指して建てられたという天守だが、最上階のみ豊臣風で、ほとんど徳川風の造形である。
とは言え、これはこれでなかなかの完成度だと思う。
何かと否定的な意見を言われがちなコンクリ天守だが、ここ大坂城のように親しまれ、
ランドマーク的な存在なら、そんな事は問題ないようだ。
作りっぱなしや、時代検証が無い、あまりにデタラメな造形なものは論外だが、地域の方々に親しまれているかが最大のポイントだろう。
いまさら言わなくてもわかるって。
天下の巨城も大坂の陣にて落城し、その後幕府の直轄地となり、
天下普請で豊臣大坂城に盛土し、新たに石垣を築いたのが現在の大坂城である。
昭和6年に建造された天守閣は、当時としては最新技術であったコンクリート建築で、
徳川期大坂城の天守台に豊臣期風天守閣が建てられた。
豊臣期の遺構は地中にしかなく、公園内の地表には徳川期の遺構だけで、
太閤さんのお城と親しまれているのは、ちょっと微妙な感じである。
もう3年も前になるが、帰省する際に新大阪で降りて、大坂城へ行った。
大阪には遊びでは行った事がなく、この大坂城がはじめての観光であった。
JR環状線大坂城公園駅で降り、大坂城ホールの脇を通って、大坂城へ向う。
このルートで行くと、青屋門の枡形が出てくるのだが、まず目に入るのは東外堀の大迫力の石垣である。
青屋門の第一の門跡。
門に向って登り坂になっており、規模、形態といい最終形と言える。
二の門である櫓門。
大阪大空襲で被害にあったが、昭和45年に残材を使って、復元された。
本丸の石垣を見ながら、南下するように歩く。
しばらく歩くと、一番櫓と呼ばれる二重櫓が現れる。
南外堀には、一番~七番までの櫓が建ち並んでいたが、現存するのは2基のみ。
もう1基の六番櫓。
1628年に創建された櫓である。
大手門の二の門である櫓門。
大手門一の門の高麗門。
1620年の創建で、1783年に落雷で破損し、1848年に大修築されたもの。
この門の控柱の継ぎ手が面白い。
手前がアリ継ぎ手で、横が山型となっており、一見どうやって連結しているのかわからない。
前に唐招提寺の修築の番組で伝統継ぎ手の特集を見たんで、このトリックは知っているのだが、
この箇所にここまで凝る必要があるのか?と疑問になりそうだが、
そこが大工の粋であり、ツッこむのは野暮ってことでしょうな。
大手門と連なる千貫櫓。1620年の創建。
名前の由来は、織田信長が本願寺攻めの際になかなか落とせない櫓に対して、
「あの櫓を落とせるなら、千貫文与えても惜しくない」と言われるエピソードからだが、
大手門に殺到する敵に横矢を与える位置のこの櫓に、そのエピソードを当てはめたのだろう。
残念なことに西の丸が休園で入れなかったので、本丸へ向う。
本丸の入口である桜門。
明治になって、陸軍によって建てられたもの。
本丸の南側は空堀となっている。
こんなに広大な空堀は見たことない。
池田忠雄が運んだと伝わる、城内最大の石。
天守閣前に現存する金蔵。
海鼠塀寄棟の土蔵造り。
結構面白い物件なのだが、如何せん天守閣の前の為、ほとんどがスルーだ。
昭和6年に建てられた、ランドマークの天守閣。
豊臣期の天守を目指して建てられたという天守だが、最上階のみ豊臣風で、ほとんど徳川風の造形である。
とは言え、これはこれでなかなかの完成度だと思う。
何かと否定的な意見を言われがちなコンクリ天守だが、ここ大坂城のように親しまれ、
ランドマーク的な存在なら、そんな事は問題ないようだ。
作りっぱなしや、時代検証が無い、あまりにデタラメな造形なものは論外だが、地域の方々に親しまれているかが最大のポイントだろう。
タグ:城
大阪城は、規模といい、風格といい、さすが、と言いたくなるような
お城ですね。
by takechan (2009-12-23 11:47)
お堀も石垣も、というか石垣の石さえもスゴイですよね。なんか金ぴかの天守も
味があって好きです。大阪市民の浄財で建てたお城ですから、それだけで存在
価値がありますよね。
by ノリパ (2009-12-23 17:39)
>takechanさん
近世城郭として一番熟成した時期に造られた城郭で、
しかも幕府の威信も見せることもあり、さすがの城郭ですね。
櫓なんかを復元すると、もっと見栄えがよくなると思います。
>ノリパさん
募金が、短期でしかも予想以上の金額が集まったらしいですから、
いかに市民に望まれていたのかよくわかりますね。
by ガンビー (2009-12-24 03:02)