大垣城(岐阜県大垣市) [城]
大垣城 戦国期に美濃斉藤氏の支城であったが、織田家に美濃が平定されると、織田の配下となる。 その後は、秀吉により、一柳氏、伊藤氏が城主となった。 北の中山道、南の東海道と交通の要所であり、関ヶ原の合戦時には西軍の本陣ともなった。 関ヶ原の本戦後は東軍に攻められ、3日の籠城後に落城した。 関ヶ原の合戦後は、石川康通が入城し、松平家、岡部家と続き、1635年に戸田氏鉄が10万石で入り、幕末まで戸田氏が続いた。 | |
案内板にあった縄張り図。 揖斐川の氾濫による湿地帯を利用して造られた平城で、幾つもの水堀で囲まれているのが特徴。 現在は、堀は埋め立てられ、本丸を残し周辺は市街地化し、堀の要塞の面影はこれっぽちもない。 | |
現在の大垣城公園の正面入口にある櫓門。 旧柳口門を移築したもの。 内側から見た櫓門。 | |
櫓門の右側に復元されている艮(うしとら)隅櫓。 二重二階の櫓で、L字に多門を併設している。 左側の多門は先手武具多門。 | |
櫓門から入って、左側にある武徳殿(武道場)。 戦前に立てられたっぽい、御殿風の建物。 こういう味のある道場で、練習すると気持ちいいだろうな。 | |
昭和34年に外観復元された天守閣。 四重四階という珍しい天守。四は死と音するので、武士からは避けられていたのだ。 天守閣は戦前まで現存しており、昭和8年には国宝指定を受けたが、アメリカの無差別爆撃により焼失。 木々が邪魔で、全体をうまく撮影できないのが残念だ。 公園化している城址に木を植えて緑地化することは大いに賛成だが、見せることを意識した管理も必要だと思うよ。 本来の天守周辺には避雷針代わりとなる松が植えられることが多いが、あくまで1,2本で、木々を植えまくることはない。そもそも櫓のまわりに木があったら、物見の邪魔だ。 | |
昭和60年に建てられた西門。 戸田氏鉄が入城350年を記念して建てられた門で、本来存在しない門。 | |
昭和60年に復元された乾隅櫓。 本丸は、先の艮隅櫓とこの乾隅櫓、もう1基の二重櫓と、三重櫓1基、多聞櫓によって囲まれており、威容を誇っていた。 | |
公園に建つ、戸田氏鉄の銅像。 威容を誇った大垣城も、天守近くまで市街地化が進み、非常に窮屈である。 もっとうまく整備・復元できると思うのだがね。 |
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