高遠城(長野県伊那市) [城]
高遠城....
小彼岸桜の名所として有名な城跡公園。
桜のシーズンには、人でごった返し、公園だけではく周辺までも賑やかになる...らしい。
訪問したのは9月であったが、連休中にもかかわらず、人はまばらで、周辺の店はほとんど閉まっており、ゴーストタウン化していた。
また、駐車場も有料と無料が入り混じり、有料に停めてしまってガッカリしたり、桜シーズン以外は解放状態の入場ゲートも、何も記載が無いので入るときに一瞬戸惑う。
この中途半端加減が、なんとも奥ゆかしい。
さて、この高遠城が現在の縄張りとなったのは、武田信玄が侵攻後にこの地を整備してからである。縄張りは山本勘助が行ったと言われるが、定かではない。
武田家滅亡後も、多少の改変はありながらも、明治まで迎えた。
近世城郭として使われたにもかかわらず、中世の山城っぽさを強く感じるのは、近世城郭らしい建物や石垣といった遺構が無いからだろうね。
高遠城の縄張り。
三峰川と藤沢川の合流地の段丘上にあり、半輪郭式に縄張り。
法幢院曲輪は、馬出しといったところか。
進徳館の右横にある有料駐車場に車を止め、高遠城を探索した。
二の丸に入ってすぐにある高遠閣。
公園の休息所、地域の集会所として、昭和11年に建てられた建物で、登録有形文化財。
大正・昭和期の旅館建築風で、この威圧的な風格が、高遠城のシンボルとなっている。
二の丸と本丸を繋ぐ桜雲橋。
奥に見える門は、城門ではなく、城下にあった問屋門。
規模は伴わない小さい門だが、橋との相性はなかなかで、雰囲気はいいと思う。
橋から見た空堀。(東側)
大規模な堀で、ウォーキングコースとなっている。
橋から見た空堀。(西側)
底にわずかだが水が溜まっている。
本丸側から見た問屋門。
高遠城では珍しい石垣。藩政時代に整備されたものだろう。
近世城郭っぽさが感じられる数少ない箇所である。
新城神社。
1828年に城主内藤頼寧が、この城で最後を遂げた仁科盛信を祀った神社。
城内には内藤家の先祖の藤原氏を祀った藤原社があり、明治になってこちらと合祀された。
太鼓櫓。
藩政時代の太鼓櫓は搦手門内にあったが、明治の廃城の際、撤去された。
現在の櫓は、明治45年に建てられたもの。
南曲輪に建っている忠魂碑と砲弾型の忠骨蔵。
忠骨蔵は、日露戦争で戦死した方の遺骨や遺品が納められている蔵とのこと。
最初は砲弾型の忠魂碑かと思った。
南曲輪から白兎橋を渡って、法幢院曲輪へ。
元はここに法幢院という寺があったことから、曲輪の名前となったという。
防御性が低い南東部を守る、馬出し的な郭だが、織田軍による攻撃では、ここを滝川一益に落とされ、落城してしまった。
高遠城は地形をうまく利用した堅城ではあるが、さすがに6万の大軍の攻撃は防ぎきれなかった。
織田軍の侵攻に対する為にこの高遠城に入ったのは、武田信玄の5男の仁科盛信。
盛信は最後に腹を切った後に、ハラワタを掴んでぶん投げたという逸話を持つ、勇猛な武将である。
離反が相次いだ武田家の中で、最後まで武田家の気骨を示した武将だ。
三の丸に移築されている城門。
元は鐘楼門だったらしいが、楼部分は削除され、薬医門になっている。
門だけがポツンと建っているので、非常に寂しい風景。
勘助曲輪。
現在は、三の丸と勘助曲輪の堀は埋められて大きな平地となっており、無料の駐車場となっている。
元からあった曲輪ではなく、近世城郭に改変の大手と搦手を入れ替えた際に作られた曲輪と言われている。
高遠城が山本勘助によって縄張をしたと伝わっていたことから、名前の由来となったのだろう。
法幢院曲輪ちかくにある、資料館?の建物。
こんな細い天守にしなくて、もう少し天守っぽくしたほうがよかったような.....
高遠城の桜は満開時には圧倒的な光景となり、ぜひ見てみたいのだが、あの人ゴミと渋滞っぷりは、行く気がそがれてしまう...
バスツアーで行くのが良いのかもね。
小彼岸桜の名所として有名な城跡公園。
桜のシーズンには、人でごった返し、公園だけではく周辺までも賑やかになる...らしい。
訪問したのは9月であったが、連休中にもかかわらず、人はまばらで、周辺の店はほとんど閉まっており、ゴーストタウン化していた。
また、駐車場も有料と無料が入り混じり、有料に停めてしまってガッカリしたり、桜シーズン以外は解放状態の入場ゲートも、何も記載が無いので入るときに一瞬戸惑う。
この中途半端加減が、なんとも奥ゆかしい。
さて、この高遠城が現在の縄張りとなったのは、武田信玄が侵攻後にこの地を整備してからである。縄張りは山本勘助が行ったと言われるが、定かではない。
武田家滅亡後も、多少の改変はありながらも、明治まで迎えた。
近世城郭として使われたにもかかわらず、中世の山城っぽさを強く感じるのは、近世城郭らしい建物や石垣といった遺構が無いからだろうね。
高遠城の縄張り。
三峰川と藤沢川の合流地の段丘上にあり、半輪郭式に縄張り。
法幢院曲輪は、馬出しといったところか。
進徳館の右横にある有料駐車場に車を止め、高遠城を探索した。
二の丸に入ってすぐにある高遠閣。
公園の休息所、地域の集会所として、昭和11年に建てられた建物で、登録有形文化財。
大正・昭和期の旅館建築風で、この威圧的な風格が、高遠城のシンボルとなっている。
二の丸と本丸を繋ぐ桜雲橋。
奥に見える門は、城門ではなく、城下にあった問屋門。
規模は伴わない小さい門だが、橋との相性はなかなかで、雰囲気はいいと思う。
橋から見た空堀。(東側)
大規模な堀で、ウォーキングコースとなっている。
橋から見た空堀。(西側)
底にわずかだが水が溜まっている。
本丸側から見た問屋門。
高遠城では珍しい石垣。藩政時代に整備されたものだろう。
近世城郭っぽさが感じられる数少ない箇所である。
新城神社。
1828年に城主内藤頼寧が、この城で最後を遂げた仁科盛信を祀った神社。
城内には内藤家の先祖の藤原氏を祀った藤原社があり、明治になってこちらと合祀された。
太鼓櫓。
藩政時代の太鼓櫓は搦手門内にあったが、明治の廃城の際、撤去された。
現在の櫓は、明治45年に建てられたもの。
南曲輪に建っている忠魂碑と砲弾型の忠骨蔵。
忠骨蔵は、日露戦争で戦死した方の遺骨や遺品が納められている蔵とのこと。
最初は砲弾型の忠魂碑かと思った。
南曲輪から白兎橋を渡って、法幢院曲輪へ。
元はここに法幢院という寺があったことから、曲輪の名前となったという。
防御性が低い南東部を守る、馬出し的な郭だが、織田軍による攻撃では、ここを滝川一益に落とされ、落城してしまった。
高遠城は地形をうまく利用した堅城ではあるが、さすがに6万の大軍の攻撃は防ぎきれなかった。
織田軍の侵攻に対する為にこの高遠城に入ったのは、武田信玄の5男の仁科盛信。
盛信は最後に腹を切った後に、ハラワタを掴んでぶん投げたという逸話を持つ、勇猛な武将である。
離反が相次いだ武田家の中で、最後まで武田家の気骨を示した武将だ。
三の丸に移築されている城門。
元は鐘楼門だったらしいが、楼部分は削除され、薬医門になっている。
門だけがポツンと建っているので、非常に寂しい風景。
勘助曲輪。
現在は、三の丸と勘助曲輪の堀は埋められて大きな平地となっており、無料の駐車場となっている。
元からあった曲輪ではなく、近世城郭に改変の大手と搦手を入れ替えた際に作られた曲輪と言われている。
高遠城が山本勘助によって縄張をしたと伝わっていたことから、名前の由来となったのだろう。
法幢院曲輪ちかくにある、資料館?の建物。
こんな細い天守にしなくて、もう少し天守っぽくしたほうがよかったような.....
高遠城の桜は満開時には圧倒的な光景となり、ぜひ見てみたいのだが、あの人ゴミと渋滞っぷりは、行く気がそがれてしまう...
バスツアーで行くのが良いのかもね。
桜の時期に一度行ってみたいですね、高遠って。
混んでて大変でしょうけど。
by takechan (2010-03-21 20:17)
本やサイトで見る高遠城の桜は圧巻ですからね、見てみたいです。
マイカーではかなり大変っぽいので、バスツアーが楽かなって思ってます。
by ガンビー (2010-03-21 21:24)
おおっ、いいですね。いつ行けるんだろう。高遠城。
真田太平記の冒頭は、ココのお城から始まるんですよね。
それがしは、なんとか今年中に行きたいですね。
by ノリパ (2010-03-23 23:38)
高遠に行くなら、諏訪の高島城、松本城も合わせてプランしたいですね。
真田太平記と言えば、上田の「真田太平記館」がオススメですよ。
上田城攻略の際にでも。
by ガンビー (2010-03-24 02:40)