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田辺城(京都府舞鶴市) [城]

田辺城

細川藤孝が織田信長から丹後1国を与えられ、宮津城を築き本拠としていたが、
支城として築かれたのが田辺城である。
関ケ原のとき、福知山の小野木公郷に攻められた際に宮津城を焼き払い、田辺城で籠城した。
籠城でよく耐えていたが、藤孝が古今和歌集の奥義の継承者であったことから、後陽成天皇が失伝することを惜しみ、仲介に入り開城となった。
関ケ原の後は京極氏が入封し、その後1668年に牧野氏が田辺を治めて、明治を迎えた。

和歌で救われた城ってのが、面白いですね。

舞鶴西総合会館の横にある駐車場に車を停めて、田辺城を探索開始。

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城址に近づくと、模擬櫓と本丸櫓門が見えてくる。
近世城郭として、一番見栄えのするビューである。

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平成4年に復元された本丸の楼門。

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城内に入る。
写真では見切れているが、虎口の石垣が残っている。
これも復興かも?

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昭和15年の建てられた模擬櫓。
彰古館という資料館のようだが、閉館日だったので、どうなっているかは知らないです。
模擬建築としては古いモノですね。

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天守台。

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反対側からみた天守台。
この天守台に天守閣が建てられたことは無かったという。

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さらに回り込む。
天守台から続く石垣。先にあるのが模擬櫓。
堀が残っていれば、かなりいい感じなんですけどね。
一応、溝のようなものを作っているので、水を張ればいいのにと思ってみる。

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この模擬櫓、あたかも現存していたようにしっくりと建っていますね。

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模擬櫓をもう1枚。
近年に化粧直ししたのか、非常にキレイな外観です。

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城址内の公園にあった遊具。
このセンス好きです。

田辺城へは、舞鶴若狭自動車道が全通して2週間くらいたったときに、行ってみた。
時間がかなり短縮でき、舞鶴方面へ行きやすくなった。
またゆっくりとドライブしたい。

タグ: 京都府
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館山城/館山陣屋(千葉県館山市) [城]

館山城

1580年から1614年に改易させられるまでに、里見氏の最後の本拠地となった城。
改易後は城は破棄されたが、1781年に稲葉氏が館山藩として入り、明治を迎えた。

現在は城山公園となっている館山城址に行ってみた。

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麓の駐車場に車を停め、しばらく歩くと本丸?にある摸擬天守。
実際天守があったかどうかも不明。
この摸擬天守は、八犬伝博物館となっており、里見八犬伝の資料館になっている。

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廻縁から見た景色。
なごみますね。

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天守があるこの平地は、実は日本軍が高射砲陣地を作るために平らにしたらしい。
一見城址跡っぱいがそうではない。
しかし摸擬天守とマッチして、似合ってるから本丸でいいじゃんとなってくる。

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天守があるエリアにある浅間神社。
石の祠が気になります。
稲荷社であれば霊窟なんでしょうが、こちらでは何を表しているのだろう。

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高射砲陣地だったとのことで、陣地跡を探してみた。
画像では全く伝わらないが、2つの土塁があって、ここに高射砲が設置されていたらしい。
・・・・全然わかんないですね。。。。

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八遺臣の墓。
里見忠義が伯耆倉吉に流されて、若くして亡くなったあとに、家臣の8名が殉死した。
これが滝沢馬琴の南総里見八犬伝のモデルであると言われる。

稲葉氏は、城山に城郭を整備せず、麓に陣屋を築いたとのことで、その名残を回ってみたよ。

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陣屋跡にある貴美稲荷神社。
なかなか雰囲気のある石段。

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ちと寂しいです。

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里見忠義の家臣印東采女佑の屋敷の井戸と伝わるもの。
言われないと絶対わからないです。。。。

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陣屋跡に残るクランク

天気も良かったこともあり、城山公園は憩いの場として非常ににぎわっていた。
やたらと「里見氏を大河ドラマに」というのぼりがあったが、何をメインエピソードにしたいんだろう?
って誰をメインに?
タグ: 千葉県
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福知山城(京都府福知山市) [城]

福知山城

明智光秀が丹波一国を与えられた際に、亀山城から新たな居城として築いた城。
現在の福知山城は、本丸だけが残り、整備されている。

城址の南にある駐車場に車を停めて、攻城開始。

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立派な太鼓橋。

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太鼓橋を渡ったところにある櫓。
資料館のようだったが、閉まっていたので、何を展示していたのかは不明。

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本丸入口の櫓門。

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1986年に復元された摸擬天守。
下見板張りの古式な感じがいい。
更にいいのは、廻縁を設けなかったことですね。

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天守の付櫓。

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二の丸銅門にあった番所。
場所こそ違うが、城内における現存物件。

福知山城で印象的なのが、石垣のあちこちで見られる・・・・・

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宝篋印塔や五輪塔などの石塔。
これでもかってくらいつかわれている。

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あっちにも

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こっちにも。。。

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石塔の残骸が集められている。

光秀が、敵対する寺院から集めたとか、支配強化の為に築城を急いだからとか、神のご加護を得る為とか・・・・
諸説あるが、なんとも言えない光景だ。
石仏もあるようだが、見つけることはできなかった。

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本丸にある井戸跡

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腰曲輪から見た付櫓

福知山城と城下町を完成させたのは、関ケ原の後に入った有馬氏。
少しずつ整備が進んでおり、本丸しか残っていないものの、雰囲気が十分伝わる城である。
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信州小諸ドライブ [城]

GWは、何かあればいつでも出社して対応ってことで、日帰りのドライブしかできませんでした。

それでも、ちょっとは遠出したいと思い、小諸に行くことにした。
以前、小諸城を訪問した際は、大手門が修理中で見れなかったからだ。

で、いつもは朝6時には出発するのだが、深夜にスタートレックの映画を見入ってしまい、
また朝はまったりしながら準備していたので、出たのが7時半。

なめてました・・・GWの高速を・・・・

中央道で調布あたりでビタ止まり。
八王子こえるまでに2時間近くかかり、やっと圏央道へ。
ここはさすがに混んでいなかったが、関越に入ったら、また渋滞。
やっと上信越道に入っても、またここも渋滞。

小諸についたのは、2時前。長かった。。。。

一通り、公園内を回って、大手門へ。
大手門までのエリアは、以前の訪問よりかなり整備されて、小奇麗になっていた。

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アニメはあまり詳しくはないですが、これがやたらと目についた

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帰りは、141号を南下して中央道経由でと考えていたので、龍岡城を再訪することにした。

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日本では2つしかない五稜郭である。
サイズは陣屋レベルなので、実践性ははっきりいってないし、砲台は1個しか設置されなかったとのことで、本気で戦う陣地ではない。
もう少し、当時の姿が残っていればいいのだが、跡地は小学校になっているので、御殿の台所が残っているだけでも貴重かもしれない。

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近くの新海神社に古い三重塔があるとのことで、行ってみることに。

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1515年建立と言われている三重塔。
廃仏毀釈のときに壊されずに済んだ、貴重な塔である。

ここで4時過ぎ。
141通って帰ろうとしたが、うちのナビがマヌケすぎて、南下するのではなく、
十石峠を通るルートで案内していて、なんとも心もとない道幅の道を永遠と走らされて、
峠を越えたら、群馬に来ていた。。。。。。
ネタで買った乃木坂46ナビは、ほんとネタにしかなっていない(w

結局、関越⇒圏央道⇒中央道で帰ったが、
中央道でパトレイバーを乗せたトレーラーに抜かれた。

想像してほしい

横を10m近いロボットを乗せたトレーラーが通っていくシーンを。。。

3度見したよ。
ほんとアニメの世界だよ。

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三日月陣屋(兵庫県佐用町) [城]

兵庫県佐用町は、山に囲まれた静かな町である。
ここは津山藩森家が無嗣断絶となった際、分家の森長俊が領地替えされて、立藩した地である。

移築されて小学校、公民館として使われていた物見櫓と長屋が元の位置に戻され、
その際に他の門も復元整備されて、陣屋跡としてかなり様になった。
城関連の本で陣屋の写真をみたとき、そのインパクトある光景に、いつかは行こうと思っており、
実家の広島に車で帰る途中、兵庫の城を幾つか巡った際にこちらに立ち寄ってみた。

陣屋に着いたのは8時半でまだ陣屋は開いておらず、陣屋裏にある駐車場にも入れなかったので、
隣の列祖神社前の路肩に車を停めて、攻城を開始した。

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陣屋としては非常に立派な表門。
門が3つ、橋が2つもある珍しい長屋門です。
本でこの陣屋らしからぬ表門を見て非常に興味を持ったのだが、印象通りのインパクトある門だった。

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他と木材の色が違う建物が、小学校として移築されていた物見櫓。

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復元された中御門。

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左端にある通用御門。

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顔出し看板。
殿様気分をどうぞってことなんでしょうが、何だろ...このヤル気のなさは(w

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通用御門からみた陣屋門。

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裏に回ってみる。
裏に回った瞬間にかなり拍子抜けします。
ものの見事に.....何もないです。
中段に石垣がちょこっと見えますが、案内板にあった藩郭内図を見ると、屋敷内通用門の石垣っぽいです。

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長屋門の裏側。
手前が物見櫓で、奥が中御門。

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中御門の裏側。

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物見櫓の裏側。

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三日月藩森家は1697年にここに陣屋を築き始め、1700年頃には完成したという。
森家はここで9代存続して明治を迎えた。

門だけでなく、もう少し整備をして欲しいもんだが.....
現状の整備でも採算は取れてるのだろうか?
全然商売っ気がなく、もう少し観光に力を入れたほうがいいのではと、心配になってしまう。
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柳生陣屋(奈良県奈良市) [城]

柳生八坂神社の斜め向いの小丘に柳生陣屋跡がある。

柳生宗矩は大目付として大名を監察し、その功績が認められ、4000石を加増されて1万石となり、
柳生藩を立藩した。
その後、3年の歳月を費やして建てられたのが柳生陣屋である。

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陣屋は3代宗冬のときに増築されたが、1747年に全焼し、仮建築のまま明治を迎えたとのこと。

仮建築は破却され、その後は小学校が建っていたが、昭和55年に史跡公園として整備された。


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陣屋の石垣。
大半は公園整備時に整備されたものだろう。
手前の巨石をよく見てみると....

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地蔵様が彫られています。
これは陣屋時代からのものでしょうかね。

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陣屋入口。
この辺りの石垣は、陣屋時代からのモノっぽいです。

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陣屋跡地の石碑と、石舟斉と十兵衛の顔出し。
この辺りに表門があったことろ。

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十兵衛の顔出しのくり抜き具合が微妙(w

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陣屋跡は、建物跡が基壇として示されている。
ま、これといって見所はないですが、剣豪柳生家の本拠として色々想像しながら見るといいかもね。
タグ: 剣豪
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戸辺地陣屋(北海道上磯郡) [城]

函館奉行所を守る為に、松前藩が幕府に命じられて築いたのが、戸辺地陣屋である。
1855年に着工し、7ヶ月後には完成したという。
構造は四稜郭で、東側の先端には砲台となっており、亀が首を出した形をしている。
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明治元年の函館戦争の時、旧幕府軍は五稜郭を占領した後、周辺の新政府施設に攻撃をかけたが、
その際この陣屋も攻撃した。
旧幕府軍の猛攻により落城、落城の際に陣屋が使われないように、郭内の建物に火を放ったという。


志苔館から車で40分くらい走った上磯町の台地に、この戸辺地陣屋がある。
陣屋は城址公園となっており、その広大な駐車場に車を停めて、攻城に向ったよ。
ちょうど着いたくらいから雨が強くなって、傘をさしててもずぶ濡れになってしまった。
靴なんて予備を持ってきてないんで、この日はずっとグジュグジュした靴をはいて過ごすことになってしまった。
それはさておき....

表門前の桜並木を歩く。
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桜の季節の風景はさぞかしいいだろうな。
左側にちょっと見える愛車。愛車で北海道に上陸するとは、ちょっと感無量である。

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表門。
かなり貧相な薬医門だが、当時もこんなもんだったのだろうか?

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門前からた空堀。上が西側で、下が東側。
東側に見える窪みは砲台跡。

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門の正面にある一文字土居。

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土居の背面にはスロープがあり、厳密にはT字型。
このスロープは大砲を土居に上げるもの。
門に突撃してくる敵をここからぶっ飛ばすわけですな。

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郭内の各所に建物跡とその説明板があり、非常にわかりやすい。
驚くほど保存状態のいい史跡です。

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郭内の南北を仕切るような感じの土塁。
何の為の土塁か不明。詰所などがある生活エリアと倉庫や蔵のあるエリアで区切ったのかね。

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裏門。
この門を出てから、しばらく進むと陣屋火薬庫跡があるのだが、案内板に一切記載がなかったので、スルーしてしまった。残念....

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東側の先端部。
ここには6箇所の砲台跡があり、先に見えるいくつかの窪みが砲座部である。
手前にある案内板のところは、「大砲入」と呼ばれる大砲を保管する建物の跡。

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大砲入跡

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土塁に上がって、東側を見る。
犬走りが設けられているが、この時代に必要だったのだろうか?
意図がよくわからない。

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外から見てみる。奥が東側の先端部。
砲台跡が3箇所確認できる。

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先端部から見たところ。
手前の木が邪魔。これは伐採してもいいと思うのだが....

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反対側の砲台跡。

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砲台跡前から見た表門。

非常に整備された城址で、ほんとに保存状態がいい。
規模も予想以上で、なぜここがマイナー物件なのかがわからない。
交通の便をのぞいてね。
にしても.....四稜郭、志苔館、そして戸辺地陣屋と、人っ子一人いなかったです...
駐車場には車停まっているのに(w
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志苔館(北海道函館市) [城]

函館市街地より9km離れた、津軽海峡に面した海岸段丘に志苔館跡がある。
室町時代、この辺りには和人の館が12あったらしく、その1つが志苔館である。

この志苔館には小林氏が住居していたが、1456年に起ったアイヌ人の蜂起(コシャマインの反乱)によって攻め落とされてしまった。その後に小林氏が戻って居住していたが、1512年にまたもアイヌの蜂起により志苔館は陥落してしまう。
小林家はその後に蠣崎氏に仕えて、志苔館は廃城になったといわれている。

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志苔館は中世の氏館らしく方形の単郭であるが、特徴は大手?虎口の二重掘だろう。
その志苔館を見ていく。

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志苔館への入口。
左の柵は駐車場らしき、程よいスペースなのだが、閉まっており中に入れない。
右の柵内は、コシャマインの乱における和人、アイヌ人の慰霊碑が建っている。
どうも和人という呼び方がしっくりこないのだが、他の表現も思い浮かばないので、説明板に書いてあった通りで表記する。

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入口の坂をそのまま進むと、案内板と石碑がある。
後ろの土塁が志苔館跡である。
二重堀を見るため、石碑のところまで行かず、手前の舗装道を曲がり進みます。

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最初の堀の手前の虎口。
進みます。

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堀に掛かる木橋から見た堀。内陸方向。
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津軽海峡方向。
天気が良ければ、もっと良い写真が撮れたと思う。

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海側まで歩いて、木橋方向を見る。
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同じく海側の端からみた氏館。
二重目の堀と土橋。

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氏館の虎口。

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津軽海峡側の二重目の堀。
天気の良い日にぶらっと散歩すると気持ちいいだろうな~

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氏館内。
周辺を3~5mの土塁で囲まれている。
本土でよくみる中世の氏館より、かなり広く防御性は高い。
当時のこの辺りは、なかり緊張してたんでしょうか。
詰城のようなものは無さそうなので、必然的に館の防御を上げていったところでしょうか。

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駐車場:200mくらい先に公園の無料駐車場あり
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四稜郭(北海道函館市) [城]

五稜郭は幕末における洋式の稜堡式城郭として、異彩を放っている。
その五稜郭の外郭防衛の為に築城されたのが、四稜郭である。

五稜郭から北に3kmに築城された四稜郭は、スペード形稜堡と呼ばれる角手裏剣のような形をした台場で、
大鳥圭介が設計したと伝えられている。
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旧幕府脱走軍の約200名と付近の村民100名にて、数日のうちに完成されたという。
明治2年5月11日の函館総攻撃に際し、この四稜郭も攻撃され、級幕府軍は防御に努めたが。
権現台場を新政府軍に占拠されたことにより、五稜郭へと敗走した。戦闘わずか数時間後のことだったらしい。

五稜郭を攻略した後に、その四稜郭にも立ち寄ってみた。

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四稜郭の虎口。
かなり整備されているので、非常に見学しやすい史跡です。

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虎口を土塁の上から見たところ。
四稜郭には、建造物は建てられなかったという。

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四隅にある矢印型の場所が、砲台を設置する稜堡。
土塁が二段になっているが、上段部分は、胸土と呼ばれる土塁。

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近くで見た稜堡。

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濠....はっきり言って、この程度の濠では全く防御力はない。
実際、小雨が降って足元がすべる状況下で、自分でも秒殺で駆け上がったし。

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隅の先端部を外側より見たところ。

この四稜郭は、内部に井戸もなく、脆弱な濠を見ても、とてもじゃないが立て籠もって防御する拠点ではないです。

今でこそ整備されて公園化しているが、よく現存したなと感心しますね。
農地化されててもおかしくないようなところなんだが。
日本では数少ない稜堡式城郭なんで、五稜郭見たついでに寄ってみたいものです。

駐車場:大型駐車場あり
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真里谷城(千葉県木更津市) [城]

武田信玄より6代前の武田信満の子・武田信長が、古河公方足利政氏に従って歴戦し、
その恩賞として上総国の支配権を認められてから、上総武田家が始まる。
信長の子・信高の次男である信興は、分家として真里谷氏を名乗り、
以降真里谷氏は本拠である真里谷城を中心に、足利政氏の子・義明を擁して、
上総の中央一帯を支配していた。
ただ、後北条氏と里見氏といった大勢力に挟まれており、家督騒動という内部分裂につけ込まれ、
弱体化を招き、後北条氏と里見氏の支配下に収まっていった。

その真里谷氏の本城である真里谷城を攻略してきたよ。

真里谷城跡は、現在少年自然の家(キャンプ場)として使われており、多少の改変はあるものの、
比較的いい状態で現存している。

ただ・・・公開期間は、夏休みの期間中のみなので、訪問の際は注意が必要だ。

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4つの大きな郭によって構成されている。

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城山神社の手前にある管理事務所の手前に駐車場があるので、そこで車を停めて探索開始。
今回は主郭をメインの探索で、この暑さでは2~4郭の藪漕ぎでの探索は断念しました。

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城山神社の参道?
どこから持ってきたのかわからないが、五輪塔や石祠、石碑が集められていた。
小さな狛犬がかわいい。

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城山神社。
神社には、上総武田家の祖である武田信長が祀られている。
中を覗くと、かろうじて信長の木像を見ることができる。

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神社の東側にある、主郭(右側)と物見台の堀切。

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物見台の先にはウッドベンチが用意されている。
現在は草木が生い茂って見晴らしが良いとは言いがたいが、ハゲ山状態では見晴らしいいんだろうね。

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主郭の虎口。
T字型の大きな虎口である。
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虎口の突き当たりから、左右を見てみる。

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主郭は千畳敷と呼ばれる広い郭となっている。

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東側の土塁はかなり高く、10m近くはあるだろうか。
その土塁の南部には、物見台が設置されていた。
昔もここにあってもおかしくない。

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南側には段々と郭が続いている。

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主郭の東側にある腰曲輪。

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主郭の虎口の反対側の一段下にある郭。
土塁によって囲まれてる。

主郭周辺だけでも、城の規模がうかがい知れる。
ただこの城跡の周辺を車で走ってみて気になったのは、防御的拠点「としては問題ないのだが、
場所としては要所でもなく、周辺に集落が少ないことだ。
真里谷氏の本拠であるなら、それなりの集落なり、街道の整備があっても良さそうな気がするのだ。

場所:千葉県木更津市真里谷
駐車場:事務所付近は15台程度 麓に広大な駐車場あり
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