広島城内の戦争遺跡(広島県広島市) [戦争遺跡]
明治維新の後の広島は、広島城内に広島鎮台(陸軍第五師団)が置かれ、軍事色の強い街になっていく。 日清戦争時には、広島城に大本営が移され、明治天皇が行幸した。また帝国議会も開かれたことから、戦時中は事実上の首都であった。 このように、広島城内には多くの軍事施設が建設されたが、現存していた天守閣と同様、原爆により焼失した。戦後は、国際平和都市として生まれ変わり、軍事色は消えていったが、城内には少なからず残っており、それを見ることとする。 |
昭和33年に外観復元された天守閣。戦前の昭和6年に国宝に指定されていた。 天守閣は、原爆の熱線には耐えたが、爆風によって倒壊。写真は西側より撮影したものだが、爆風は南(右側)からで、倒壊した木材は、天守台と北側(左側)の堀に散乱した。 |
中国軍管区司令部の地下通信施設の入り口。 当時勤務していた女学生が、この地下壕より、原爆投下の一報を知らせたという。 |
入口の説明板の写真。 護国神社側から撮ったもの。 右側は堀であり、石垣の中に造られた半地下構造。上部には土が盛られていた。 この地下壕は原爆の爆風にも耐え、中の方々は、無事であった。(その後は大変だったらしい) 写真には鉄塔が写っているが、原爆の一報は無線連絡だったのだろうか? 通信は、福岡と福山に繋がったという。 (微妙に写ってるのはオレです) |
先の古写真にも写っている窓。(中央部の木の後ろ) 木枠も残っている。窓の内側は情報室。 入口の右側面側。 |
入口左側にある書類保管室。 地下には、 ・作戦指令室 ・指揮連絡室 ・通信室 ・情報室 ・書類保管室 の5部屋あった。 |
通風孔。 手前が通信室。 立っているちょうど下が、指揮連絡室。 地下壕は、部分的に崩壊しているが、ほぼ完存している。 現在は非公開だが、平和教育のため、定期的な公開をしてもいいと思うが。 |
広島大本営跡。現在は基石のみ残る。 石柱には、「史跡明治27,8年戦役廣島大本営」と掘られているが、史跡部にはコンクリで埋められている。 戦後に進駐軍に考慮して、誰かがやったらしいが、史跡だけってのも... |
大本営の古写真。 大本営は、木造の疑洋風建築。 もちろん原爆により焼失。 |
大本営跡より南西にある基石。 おそらく参謀部跡。 |
|
戦前は軍都であった広島だが、戦後は平和都市として復興を遂げた。 世界的な平和都市として、広島に残る戦争遺跡を通して、後世に戦争とは何であるかを伝えていって欲しい。 関連記事:広島城 |
東京飛行場(調布陸軍飛行場)門柱 [戦争遺跡]
1年前に調布陸軍飛行場跡を探索した時は電車と徒歩だった為、時間の問題から探しきれなかったり、武蔵野の森公園の掩体壕が整備中で、正面からしか見れななかったので、車にて再訪した。
■前回の探訪→ 「調布陸軍飛行場跡探索」
調布飛行場の管制塔から南に進むと、飛行場建設当時の「東京調布飛行場」の門柱が現れる。 | |
向かって右側の門柱には「東東調布飛行場」と刻まれている。 | |
左の門柱には何も刻まれていない。 | |
武蔵野の森公園を再訪。前回見落としていた箇所や変わった点をピックアップしてみる。 | |
掩体壕(大沢2号)。 | |
前回見れなかった後ろ側。 | |
掩体壕(大沢1号)の後ろ側。 | |
大沢1号の横にある飛燕のブロンズ像。 悲しい話だ。 | |
飛燕を下から見てみる。 | |
今度は横から。 | |
飛燕戦闘機隊―帝都防空の華 飛行第244戦隊写真史 |
「液冷戦闘機「飛燕」」(渡辺洋二著)を読んでから、飛燕について色々と調べてる際に購入した、飛燕を中心とした戦時中の調布飛行場の写真集。 |
旧日立航空機立川工場変電所(東大和市) [戦争遺跡]
壁一面に残る被弾の跡が非常に印象的な、日立航空機(株)立川工場変電所。
戦争遺跡関連の本や雑誌には必ず出てくるといっていい程のメジャーな遺構ながら、まだ訪問してなかった為、1年前に行った調布陸軍飛行場関連の遺構の再見を含め、出かけることにした。
日立航空立川工場変電所は、昭和13年に建設された航空機のエンジンを製造していた工場の変電所で、軍需工場であったこの一帯は、3回も空襲され、その中で残った貴重な遺構と言える。
3回の空襲は、
昭和20年2月17日 F6F戦闘機50機による機銃掃討
同年4月19日 P51戦闘機数機による機銃掃討
同年4月24日 B29の101機による爆撃
4月の段階では、戦闘機数機でここまで侵攻出来るまでに、帝都の防空能力は低下、というより機能していなかったということだろう。
東大和南公園の中にひときわ異様な姿を見せる旧日立航空機立川工場変電所。 | |
正面右前の花壇内にあるプロペラ。 | |
戦闘機による機銃掃討の弾痕とB29による爆撃跡。 | |
室内には変電所の設備らしきものが残されている。 | |
裏側。 | |
受電装置。 | |
給水塔の一部。 |
参考文献
日本の戦争遺跡―保存版ガイド
調布陸軍飛行場跡探索 [戦争遺跡]
「日本の戦争遺跡」(平凡社新書)で現在の調布飛行場が、かつては調布陸軍飛行場であり、帝都を防衛すべく、奮闘していたことを知った。
現在の飛行場より広大で、当時は関東近辺を含めても最大であったという。
とは言え、本土を我が物顔で飛び回るB29をまともに迎撃できる戦闘機はなく、調布飛行場に配備されていた三式戦闘機(飛燕)は、通常戦闘の他に、空対空の特攻にも使われた。
よく知る艦船特攻とは違い、空対特攻は生還の可能性が多少ある(B29のタンク部に特攻し、その後落下傘脱出)とはいえ、日本軍の落下傘の装置の粗悪さや爆発に巻き込まれたりと、やはり生還率は低かった。
このあたりの話については、「液冷戦闘機「飛燕」」渡辺洋二著がオススメである。
で、早速調布飛行場近辺の遺構探索に出かけた。(2006.05.12に探索)
京王線武蔵野台駅から甲州街道に向けて歩くと、甲州街道に面して、航空機用掩体壕が現れる。 | |
甲州街道から見たところ。 | |
武蔵野森公園内に現存している2個の掩体壕の1つ。 | |
一応、鉄筋は入っている。 | |
手前の丘から見たところ。 | |
掩体壕の手前には、調布陸軍飛行場施設、掩体壕、飛燕についての説明板がある。 | |
もう一つの掩体壕、大沢1号。 | |
保存状態は悪く、大沢2号以上にボロボロだ。 | |
傍には、飛燕のブロンズ像がある。 | |
現在の調布飛行場。 |
後で知ったのだが、武蔵野の森公園内の掩体壕は、訪問時は整備中で、翌月の6月から公開だったらしい。
武蔵野森公園は非常に整備されており、公園の散歩がてらにでも、掩体壕を見物するといいかも。
近くには味の素スタジアムもあり、スポーツ観戦のついでに寄ってみてはいかがかね。
参考文献
日本の戦争遺跡―保存版ガイド 平凡社
液冷戦闘機「飛燕」―日独合体の銀翼 文藝春秋
陸軍登戸研究所遺構探索 [戦争遺跡]
母校の明治大学の生田校舎(神奈川県川崎市多摩区)は、陸軍登戸研究所の跡地に建てられた為、当時の遺構がいくつか現存している。
登戸研究所は、かの有名な「風船爆弾」や「万年筆型ピストル」など、気の抜けた兵器開発が行われていた他に、偽札製造所、枯草剤や毒薬などアングラな研究所であった。
当時の建造物は徐々に壊され、新しい校舎として変化していったが、いまでもいくつかの遺構が忘れ去られたかごとく、近代的な校舎の中にひっそりと佇んでいる。しかし現存している遺構も、取り壊し予定のものがあり、壊されたりどこかに移築される前に確認することにした。
校内にあった案内板に遺構跡を記入してみた。
黄色く塗ったところが、現存している遺構である。
本件とは関係ないが、青部が理工学部、緑部が農学部、赤部が共有施設。
農学部の裏手にある西南門から入って正面に見える弾薬庫。 | |
西南門の左手側にある36号棟も遺構。 | |
農学部1号館の裏手の斜面にも弾薬庫跡がある。ここはかつてサークルの部室として使われたことがあるようだ。 | |
1号館と2,3号館に挟まれる位置に、ちょっと場違いな木造建物が2棟出現する。 | |
反対側。 | |
26号棟(東側) | |
1号館の裏手の斜面を上ったところ(案内板の青ライン)に、戦時中に特殊ロケット砲実験用レールが敷かれていたらしいので、土塁等の遺構が無いかと思い、行って見ると.... 目的の遺構はなし。 | |
図書館の入り口の斜め前には、陸軍の★マーク入りの消火栓が残っている。 | |
学生会館の前のもう1つあり。 | |
正門の守衛所の裏に動物慰霊塔がある。 | |
登校路門からの急な坂(実質的な正門はこっち)を上ったところにあるのが弥心神社。(今では生田神社と呼ばれている) | |
境内に立つ「登戸研究所跡」の石碑。 | |
校内に貼ってあった保険のポスター。 |
明治大学生田校舎へは、小田急線生田駅から新宿方面へ線路沿いに徒歩7分程度。
撮影する場合は、入り口の守衛所でその旨を伝えること。