永賞寺(福井県敦賀市) [寺/神社]
大谷吉継は、秀吉の配下には珍しい文武に長けた武将であり、秀吉にして 「百万の兵を与えて、縦横に指揮を執らせてみたい」とまで言わせたほどの知将。 病気(ハンセン病との説もあるが不明)が無ければ、五奉行にもなった程の逸材だ。 関ヶ原の前哨戦では、前田家を翻弄し、本戦でも小早川秀秋の裏切りを想定、陣を配置して応戦し、何度も押し返した程である。 敗戦の将のため、遺構はほとんど残っていないが、吉継の城下町であった敦賀に供養塔があるとのことで、 行って見たよ。 | |
気比神宮から敦賀街道を旧敦賀港駅舎方面に、車で1分程度進むと永賞寺がある。こちらが大谷吉継の供養塔のあるお寺である。 薬医門の三門。 創建は1547年で、1591年に大谷吉継が菩提寺として寺内の諸役を免除し、以降の領主もそれを安堵したという。 | |
本堂。 境内はきれいに清掃されており、居心地がいい。 訪問時にちょうど住職さんが掃除しており、色々と話を伺うことができた。 オレが大谷吉継について詳しかったので、住職がびっくりしておられたが、歴史街道で特集していたのを読んでいたからだ。 1609年に建立された、大谷吉継の供養塔と伝わる九重塔。 敦賀市内には、層塔がほとんど残っておらず、原形を保つ唯一の遺構でもあるという。 | |
鐘堂。 梵鐘は人間国宝の香取正彦氏の作で、「明星の鐘」と名付けられているようだ。 | |
地蔵堂。 | |
三門のすぐ左側にある前田長兵衛の五輪塔。 前田長兵衛は柴田勝豊の家臣で、1596年からは堀尾吉晴に仕えた。後に敦賀に移り住んだとのこと。 | |
昔は堂宇が立ち並び、塔頭4院、末寺3ヶ寺を要した大寺であったが、今はこじんまりとした寺である。住職さんは気さくな方で、境内は掃除が行き届いた非常に居心地のいい寺である。 |
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