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躑躅ヶ崎館跡(山梨県甲府市) [城]

信玄の墓から武田神社へ向かった。
武田神社は、大正時代に武田家三代(信虎-信玄-勝頼)の氏館である躑躅ヶ崎館跡に建てられた神社である。
ここでは、城跡として旧躑躅ヶ崎館と現武田神社とを分けて見ることにする。
説明板の縄張りを見てわかるように、近世城郭ではなく、典型的な中世の方形武家氏館である。
信虎、信玄の初期の頃は、左側(東側)の主郭部のみであり、1552年に嫡男義信の館として西曲輪が増築された。(西曲輪の北の位置した味噌曲輪もその後増築)


東側に位置する大手門跡。現在の武田神社では、南側が表参道となっているので、こちらはひっそりとしている。大手門を挟んで、北は空堀、南が水堀となっている。
土塁がメインな躑躅ヶ崎館のなかでは、珍しい石垣部分である。

大手門はこんな感じだった。
画像は北杜市に復元された風林火山館。
大河ドラマ「風林火山」のセットとして使われている。

南の参道から東側を見た水堀。
大手門の手間には甲州流築城の特徴である、三日月堀の存在が発掘調査によって明らかにされた。
信玄時代からの井戸。
主郭の土塁(西曲輪側)
各曲輪は、土塁と堀で囲まれている。
主郭と西曲輪の堀。
北側は見ての通りの空堀。画像右奥(主郭の北西)には、武田家滅亡後にこの地に入った加藤光泰らが築いた天守台がある。天守閣が建てられたかどうかは不明だ。
主郭と西曲輪の南側の水堀。

西曲輪の南側の橋から神社参道側を見る。
西曲輪の門(入り口)は北と南にあり、武田時代は両方とも方形の枡形虎口があった。
基本的な防御機能は備えているものの、中世の氏館の域を超えていない。北側にそびえる要害山に詰城があったことにもよるが、「人は城、人は石垣」と言ったとされてるように、戦略的に城を造らなかったとされる。
信玄の場合、常に攻めることによって自国を守る、先取攻撃的防御のスタイルなので、強固な城造りは、敵に弱さを見せることになるになるからだ。
ま、それが成り立つのは、信玄というカリスマによる家臣団の結束によってであり、信玄の死後の烏合の衆に成り下がった家臣団が本来の戦国時代の姿であろう。

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