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甲府城(1)(山梨県甲府市) [城]

武田信玄所縁の旅と称しながら、旅の1番目は信玄とは関係のない甲府城である。
甲府城は、武田家が滅亡後、甲斐の領主となった徳川家康が築城し始め、家康が関東に移封後は、秀吉の家臣に築城は引き継がれ、浅野長政・幸長の頃、ほぼ完成したと言われる。
徳川の世になると、江戸の防御としてこの地を重要視し、家康血筋の者を代々城主とした。そもそもが後北条に対して、その後は家康に対する城として築城されていた為、かなり強固な城である。
江戸時代中期までは重要地であったが、世の中が平和になってくるにつれ、江戸防衛的重要度は低下していき、享保9年以降は幕領として甲府勤番が在城するようになった。この甲府勤番は、幕府の役職としてはあまり高くなく、言わば左遷的なポストにまでになってしまっていた。
この甲府城が再び注目されるようになったのは幕末の戊辰戦争で、東海道を進軍する新政府軍を足止めするために、近藤勇率いる甲府鎮撫隊が甲府城に入る予定だったが、1日差で新政府軍が入城し、その後の柏尾の戦いで鎮撫隊は敗走してしまった。本来敵であるはずの新政府軍がなんなく入城しているところが、平和ボケしているというか、当時の幕府の内情がうかがい知れて情けないものだ。

現在の甲府城は、舞鶴公園として整備されているが、ここで苦言。
駐車場を開放してもらいたい。周辺に数箇所駐車場の敷地があるのだが、1箇所を除きチェーンで封鎖している。バス専用ということらしいのだが、チェーンをするぐらいなら開放してもいいのでは。結局2時間程度滞在していたが、ず~とチェーンしっぱなし。
ま、線路を挟んだ飛び地に枡形門が復元されており、そこにさりげなく駐車場はあったのだが....気づかんわ!

結局、歩いて2,3分のところにあったコインパーキングに車を停めた。
城の南側、遊亀橋からの登城となった。
石垣が美しい城である。
坂下門跡。
鍛冶曲輪と二の丸を繋ぐ門。築城前にあった一蓮寺の門を使用したという伝がある。
二の丸跡に建つ武徳殿。昭和初期の建築。
現在でも柔道場として使われているようだ。
戦前の武道場のセオリー通りの、江戸期御殿建築を模した建物である。
入母屋破風と唐破風の組み合わせがなんとも攻撃的。
二の丸から天守曲輪や本丸へ通じる、中の門跡。
本丸より一段低い位置にある、天守曲輪。
左の石垣の上が本丸となる。
鉄門跡。
天守曲輪から本丸へ通じる南門。
鉄門というくらいだから、鉄筋付の扉だったのだろう。
本丸南西に建つ謝恩碑。
山梨県が、明治44年に明治天皇から皇室の森林をいただいたことを記念して、大正6年から3年かけて建てられた碑である。
碑は古代エジプトのオベリスクを、碑台はパイロンとよばれる神殿入口に設けられた搭状の門を模して作られた。
今でもこのあたりのランドマーク的存在である。
謝恩碑から見た、鉄門跡の片側から続く城壁跡。
銅門跡。
天守曲輪から本丸へ通じる西門。
画像は天守曲輪から本丸を見上げたところ。


銅門の外側にある、高麗門の内松蔭門。
平成11年の復元。

甲府城(2)へ続く


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