松代藩文武学校(長野県長野市) [その他]
1855年に開校した、松代藩士に文武両道の教育する為の藩校が松代藩文武学校である。 各武術、西洋兵学、砲術、漢学、東洋・西洋医学と、従来の藩校の古典的なカリキュラムだけでなく、 西洋の学問も積極的に取り入れていた。 | |||||||||
校門は、冠木門。 8代藩主真田幸貫が藩校設立を計画し、9代幸教によって完成された。ただ、完成まもなく花の丸御殿が火災になった為、2年間役所として使われていた。 | |||||||||
校内に入ってすぐ左横に番所、その奥に柔術所がある。 | |||||||||
柔術所では、日割りで各流派の柔術が学べたという。 現在の柔道では畳の上での練習であるが、古流柔術は板間での修行が一般的である。 畳の上では思い切った技の練習が可能になる反面、実戦を想定しづらくなるという欠点もある。 学生の頃、古武術を学んでいたが、板間での投げの練習は気が抜けなかったものだ。
柔術は必修ではなかったようだが、剣術と槍術はどちらかが選択必須であった。
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東序。 フランス式の兵学や砲術の授業が行われていたところ。 | |||||||||
東序の向いにある西序。こちらは、東洋と西洋医学の授業が行われていた。医学の他には、小笠原流の武家作法も教えられていた。 | |||||||||
藩校の中心である文学所。 玄関は3箇所あり、入る人によって、使い分けられた。
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槍術所。藩校で一番最初にできた建物で、完成間もない頃に、花の丸御殿が焼失した為、この建物が御用部屋として使用された。その後、文学所ができたらそちらに移転し、さらに花の丸御殿が再建されると完全に引っ越していった。 槍術所は、明治5年に長国寺の庫裏が焼失した際、庫裏に転用され、さらに半分は大林寺の庫裏にも使用されたという。平成4年に長国寺の庫裏が新築されたので、元の藩校内へ解体移築された。 | |||||||||
ここまで修練場の建造物が残る藩校は珍しい。 槍術所では、工作教室のようなものが開催されており、じっくり建物を見ることはできなかったが、いまでも学びの場として機能していることに親しみを覚えると共に、文化財から見ればこれまた珍しい光景である。 |