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甲斐善光寺(山梨県甲府市) [寺/神社]

甲斐善光寺
武田信玄が、川中島での兵火から長野善光寺を守る為、甲斐の板垣郷に本尊等を移し創建したのが甲斐善光寺である。
この本尊のその後は、
織田信長のより岐阜へ→豊臣秀吉により京へ→徳川家康により長野善光寺へと、
時の権力者により数奇な運命を辿ることになる。

観光地化している為、駐車場に次々とバスが到着し、非常に賑やかである。
それまでの五山の雰囲気とは大違いである。ま、五山は禅寺なので、あまり騒がしいのも場違いな気もしますが。


五間三戸の仁王門。(国重文)
江戸中期の1754年に失火により焼失したが、1766年に再建され、現在にいたる。
門の大きさ比べ各柱が細く、ちょっと弱々しい感じを受ける。
お咳婆さんの石。
咳に苦しむ人が、全快したら飴を奉納すると約束して祈願すれば効験が著しいと言われたらしい。

いかにも善光寺建築な重層造りの金堂。(国重文)
山門同様、1754年の失火で焼失後、1796年に再建された。
東日本では、最大の木造建築。
善光寺と言えば、お戒檀廻りですが、もちろんここにもあります。
訪問した時、年配の方のツアー客の波に飲み込まれてしまい、あまりの騒ぎっぷりと牛歩戦術にまともに進めず、鍵に触ることができず....いつかリベンジしたい。
代わりといってはなんだが、金堂の天井の共鳴する龍に対しては、何度も拍手しました。
鐘楼。
銅鐘は、武田信玄が信州の善光寺から本尊と共に移したもの。
正和2年(1313年)に補修された銘がある。
長野善光寺からの遺構の一つ。(唯一の遺構?)
加藤光泰の五輪塔の墓。
加藤光泰は1591-93年まで甲斐国の領主であったが、文禄の役で朝鮮出兵しその後、病死する。
五輪塔は、江戸中期の1739年に子孫によって建てられたもの。

銅造釈迦如来像。
背面を見ると、モノを差し込める部分がある。おそらく後光が取り付けてあったと思うのだが、下に転がっていたもの(右画像)がその残骸か?

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