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佐々木小次郎像(山口県岩国市) [その他]

武蔵の里の記事を書いたので、ライバルも紹介します。

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岩国の錦帯橋近くに建っている、巌流佐々木小次郎像。
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宮本武蔵以上に謎の多い人物で、出自をはじめ不明だらけだ。
福井や福岡が有力だが、吉川英治の小説「宮本武蔵」では岩国とされているので、
この岩国に銅像が建っているわけだ。

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小次郎の代名詞である物干し竿と呼ばれる、長刀を構えている。
マンガや映画では、小次郎はいつも若くイケメンで描かれているが、これも謎なところで、
富田勢源や鐘捲自斎の弟子とされる説が正しいなら、武蔵との決闘時にはかなりの高齢となる。
小太刀で有名な富田流から、長刀の流派が派生するのは面白いけど。

山頂に見えるのは岩国城。

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巌流ゆかりの柳。
吉川版「宮本武蔵」ではこの辺りの柳とつばめを相手に工夫して、「つばめ返し」を生み出したとしている。
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「つばめ返し」は、福井の一乗滝で身につけたという説が有力であるが、
明確でもないので、その場その場の説を楽しもうと思う。
タグ:剣豪
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宮本武蔵像(岡山県美作市) [その他]

武蔵の里には、宮本武蔵の銅像が幾つか建っているので、見て廻ることにする。

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武蔵資料館近くに建つ、武道場。
最近の道場はコンクリの体育館が多いので、このような建物はいいですね。
子供の元気な声が聞こえてきて、活気があって良かったです。

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道場の横に建つ、青年時代の武蔵像。
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すごく凛々しい姿。
映画やマンガで見る姿、そして武蔵を思い浮かべる姿は、ほとんどがコレでしょうね。

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宮本武蔵顕彰武蔵武道館。
一見ヘンな帽子をかぶっているようなデザインだが、武蔵がデザインしたを言われている刀の鍔、
「海鼠透鍔」(なまこすかしつば)をモチーフにしているとのことだ。
建物は、熊本にある墓の方向を向いているとのこと。

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次の目的地へ向うときに、見つけた武蔵像。
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こちらは晩年の像。
達人の境地に達した感じがひしひしと伝わってくる。
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景色とも非常にマッチしている。

で...................これは・・・・

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面白いけど、無しだな(w
タグ:剣豪
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鉄人28号(神戸市長田区) [その他]

阪神大震災からの復興のシンボルとして神戸に建てられたのが、
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等身大 鉄人28号

ガンダムに続く1/1スケールのアニメロボットである。
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ガンダムがアクチュエータや動力源があれば動きだしそうな作りに対して、
こちらは鉄の塊って感じだ。

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ただ原作に忠実なら、鉄人28号はこのほうがいいかもね。

とにかく人が多く、人抜きでの撮影はほぼ無理。
ま~鉄人と同じポーズを取る人が多いです。

駅前から商店街と、かなり鉄人28号とか三国志でもりあがっている。
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復興のシンボルとしてというだけでなく、今後の観光にも期待が持てる。
戦後の復興のときは、空襲で焼失した城の復元ブームだったが、今はロボットですかね。

大きさ、知名度から考えると、次はマジンガーZあたりか....
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海上保安資料館横浜館 [その他]

横浜の赤レンガにやって来ました。
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小さい方の建物の前が、スケートリンクになってました。
なんだろ....この昭和チックな光景は(笑)

今回の目的は、赤レンガではありません。
赤レンガパークの海寄りにある施設、「海上保安資料館横浜館」へ向けて歩きます。

目的は、その施設の内の「工作船展示館」
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2001年に九州南西海域にて起った工作船事件にて、自爆沈没した工作船が引き上げられ、展示されている資料館である。
引き揚げ後、しばらくお台場の船の博物館に野外展示していたものを、こちらに設置展示している。

海上保安庁の巡視船と工作船との銃撃戦の映像はかなり衝撃的だったのだが、
遠いところで起っている他人事のように感じられ、日本が置かれている状況を考えさせられた事件だった。

さっそく入ってみる

いきなりかよっ!
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高速走行できるように船首がV型となっており、漁船からの改造ではなく、最初から特殊工作船として作られたようだ。
全体的に錆錆びだが、漁船に偽装するために塗られた青塗料が所々残っている。
また、船体には銃撃戦による弾痕が所々に見られる。
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操舵部が見れるように階段が設置されており、細かい配慮がうれしい。

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船体中央から前にかけては、2つの機関室となっている。
ここには、ロシア製高速ディーゼルエンジンを4基搭載。

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操舵室はかろうじて残っているが、後部にあった居住区は損失している。

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後部の弾痕。
弾痕が船首や船尾に集中しているのは、人がいないハズのこの箇所を威嚇射撃として狙っているからである。
目標追尾式遠隔機能(RFS)付20mm機関砲で撃っているとは言え、海で高速移動している中で、ものすごい精密な射撃だ。
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船尾は観音扉となっており、内部には小型船が収納されている。
この観音扉が北の工作船の特徴だね。
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格納庫内部。
ニュース映像ではあまり大きく見えなかったが、目の当たりにすると、思いのほか大きいのに驚く。
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これが格納されていた小型船。

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居住区の後部に設置されていた、14.5mm対空機銃。
ロシア製を推定されているが、詳細は不明。

工作船だけでなく、色々なものが回収されている。

まずは武器関係
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自動小銃、ロケットランチャー。北朝鮮製と推定。

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手榴弾、14.5mmの実弾、82mm無反動砲。

衣類関係
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防寒服、金日成バッチ

通信関係
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日本製のゴムボート。
武器は北朝鮮製が多いが、その他は他国のものがかりですな。

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水中スクーターをはじめとする潜水グッズ。
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偽装する為の刷板。
工作船以外の何程でもないですね。
しかも、中国船に見せるとは.....
この工作船は、東京地方検察庁によって、覚醒剤を密輸していたと認定されている。

ボランティアらしき説明員が数名おり、無料とは思えない程の展示館だった。
手頃なグッズでもあれば買うのだが、何の色気もセンスもない海上保安庁グッズしかなかったので、ここは何か考えてもらいたい。
募金箱があったので、ジュース1杯分入れておいた(セコっ)
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松代藩文武学校(長野県長野市) [その他]

1855年に開校した、松代藩士に文武両道の教育する為の藩校が松代藩文武学校である。
各武術、西洋兵学、砲術、漢学、東洋・西洋医学と、従来の藩校の古典的なカリキュラムだけでなく、
西洋の学問も積極的に取り入れていた。
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校門は、冠木門。
8代藩主真田幸貫が藩校設立を計画し、9代幸教によって完成された。ただ、完成まもなく花の丸御殿が火災になった為、2年間役所として使われていた。
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校内に入ってすぐ左横に番所、その奥に柔術所がある。
柔術所では、日割りで各流派の柔術が学べたという。
現在の柔道では畳の上での練習であるが、古流柔術は板間での修行が一般的である。
畳の上では思い切った技の練習が可能になる反面、実戦を想定しづらくなるという欠点もある。
学生の頃、古武術を学んでいたが、板間での投げの練習は気が抜けなかったものだ。
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藩校の前の道からみた柔術所。
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柔術所玄関。
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柔術所内部。
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中庭からみた柔術所内部。
門のすぐ右側にあるのが、剣術所。柔術同様、剣術も日割りで各流派が学べた。
柔術は必修ではなかったようだが、剣術と槍術はどちらかが選択必須であった。
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藩校の前の道からみた剣術所。
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剣術所玄関。
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剣術所内部。
訪問時は工作の展示がされていた。
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剣術所内部。
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東序。
フランス式の兵学や砲術の授業が行われていたところ。
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東序の向いにある西序。こちらは、東洋と西洋医学の授業が行われていた。医学の他には、小笠原流の武家作法も教えられていた。
藩校の中心である文学所。
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玄関は3箇所あり、入る人によって、使い分けられた。
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文学所正面。3箇所の玄関が並ぶ。
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部屋によっては、各建物の棟札が掲げられている。
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文学所の廊下。
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西側から見た玄関。
柔術所の西隣にある弓術所。
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弓術所玄関。
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室内から見た的場。
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弓術所内部。
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一番手前に殿様の見分室がある。
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槍術所。藩校で一番最初にできた建物で、完成間もない頃に、花の丸御殿が焼失した為、この建物が御用部屋として使用された。その後、文学所ができたらそちらに移転し、さらに花の丸御殿が再建されると完全に引っ越していった。
槍術所は、明治5年に長国寺の庫裏が焼失した際、庫裏に転用され、さらに半分は大林寺の庫裏にも使用されたという。平成4年に長国寺の庫裏が新築されたので、元の藩校内へ解体移築された。
ここまで修練場の建造物が残る藩校は珍しい。
槍術所では、工作教室のようなものが開催されており、じっくり建物を見ることはできなかったが、いまでも学びの場として機能していることに親しみを覚えると共に、文化財から見ればこれまた珍しい光景である。

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大和ミュージアム(2)(広島県呉市) [その他]

大和ひろばから大型展示資料室へ移動する。
こちらは現存の兵器が展示されている。
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特殊潜航艇「海龍」
世界初の有翼潜水艇で、操縦装置は爆撃機である「銀河」のものを流用。
後期型では艦首に600kg爆弾を搭載し、両脇の魚雷を発射後に、敵艦船に特攻するようになっていた。
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この海龍は、静岡の網代湾でアメリカの航空機のロケット弾を受けて沈没したものである。
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特攻兵器「回天」十型の試作型。
回天は、人が魚雷を操縦して敵艦船を攻撃する特攻兵器。通称「人間魚雷」
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回天は、九三式魚雷(酸素魚雷)を使って作られている。
酸素魚雷は、長射程距離で航跡削減できた魚雷で、大戦中に日本だけが実用化できた兵器である。
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零戦62型。昭和20年8月6日に琵琶湖に不時着水したものを、引き揚げて修復したもの。
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栄エンジンと13mm固定銃。
日本はエンジン開発では常に泣かされ続けたが、栄エンジンは終戦まで生産された、製造的に安定したエンジンである。

大和ミュージアムは、この他に呉の歴史展示室(といっても、ほとんど海軍とのあゆみだが)や、松本零次の作品関連の展示室等、見ごたえたっぷりな博物館である。
ショッピングモールである「ゆめタウン」が隣接しており、人の流れができやすいため、リピーターも多いようだ。
というオレも、2回訪問しているし。
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大和ミュージアム(1)(広島県呉市) [その他]

2005年4月に呉駅より徒歩5分のところに大和ミュージアムがオープンした。
1/10スケールの戦艦大和の展示のインパクトもあるが、オープン当時はちょうど映画「男達のYAMATO」がヒットしていたことも後押しして、来館者は半年足らすで50万人を突破したという。
2008年には400万人を超え、歴史博物館としては異常なペースであり、日本人の大和への思いが伺える。

そもそも大和とは何だったのか....

現代では大和に対して、様々な意見がある。

最強最大の戦艦という賛美と幻想
無用の長物、時代遅れの兵器
能力が活かされない悲劇の戦艦

実用的な面ではマイナスな意見ばかりで、ほとんどが事実なのだが、
それを押さえ込むほどの圧倒的な存在感や人を引き付ける魅力がある。
人の喩えるなら、カリスマだ。

小さい頃、大和をはじめとする連合艦隊のプラモデルを作りまくり、ビバ!戦艦好きなオレは、オープン早々ミュージアムへ向った。
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大和ひろばにある1/10スケールの大和。1/10でも26mもあり、デカイっ!
設計図や潜水調査の映像を元に、可能な限り忠実に作られた。
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この大和は、最終艤装バージョンである。
レイテ沖海戦の教訓により、対空兵器が増設された。とは言え、25mm3連装機銃では、敵戦闘機を落とすのは至難。
37mmは欲しいところ。あと副砲は削除して、高角砲を増設したかった.....
ちなみに、「男たちのYAMATO」の大和は、ここの大和の艦橋と尾道のセットを合成したものである。
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この武骨な姿が何とも言えない。このカッコよさは、現代の艦船で出すのは不可能だ。
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船首と船尾。
船首はバルバスバウと言われる、球状艦首。造波抵抗を減少させ、速度と燃費向上につながった。
戦後の艦船に幅広く採用されている。
船尾のスクリューは、歯が5mもある大スクリュー。
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色々な目線で大和が見れるようになっており、こういった細かい演出がいい。

大和ミュージアム(2)へ続く 
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「男たちのYAMATO」の大和セット(広島県尾道市) [その他]

尾道の向島に造られた映画「男たちのYAMATO」の大和セットが、2005年7月中旬から2006年5月7日まで一般公開されていた。
はじめは2006年3月末までの公開だったが、公開2ヶ月足らずで入場者が10万人を突破し、耐震的にもまだ大丈夫ってことで公開延長された。
外観はベニア板の張りぼてだからね~、よく持ったったと思いますよ。
結局、どれくらい入ったのか知りませんが、50万くらいはいったのではないか。
1人500円だから

500円×500,000人=250,000,000円ナリ

映画も興行収入20億円とヒットしたようで、6億もかけて作った甲斐があったもんだ。
現在は取り壊され、その雄姿を見ることができないが、一部の砲塔などは呉の折本マリンビル3号館に移築され、今でも見ることができる。ま、映画のセットだから、間近でマジマジと見ないように(笑)

2005年8月に帰郷した際に行ったので、呉探訪のおまけとして記事をアップした。
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大和の艦首。カッコィィ!!
下部は造られていないため、残念ながらバルバスバウは見ることができない。
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尾道の沖にある向島の日立造船跡地にセットは造られた。
実物大で、前半分だけが再現された。
艦橋は再現されなかたが、これは建築法の問題らしい。
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艦首からの眺め。第一主砲の砲身は省略されている。とにかくデカイっ!!!
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副砲(60口径15.5cm3連装砲塔)を下から見る。
巡洋艦最上型から流用されたもので、竣工当初は前後の2基以外に、両舷にも2基配備されていた。
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25mm3連装機銃。プラモデルではすぐポキポキ折れるやっかいなやつである。
最終時には52基も配備されたものだが、対空兵器としてはいささか役不足。高射砲をもう少し増やしたほうがよかったのでは。
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シールド付きの25mm3連装機銃
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40口径12.7cm連装高角砲。
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ハッチ。
中には入れない。艦内は再現されてないのだろう。ハッチ自体がハリボテの木材だろうから、観光としても耐久に問題あるだろうし。
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資料室から見た姿。要塞のようである。
もし...大和が沖縄に到着していたら、このような固定砲台になっていたのだろう。
お気づきかもしれないが、最初の艦首の画像は別の日に撮影したもので、知り合いから頂いたものです。
艦首を撮影したと思っていたが、すっかり忘れてしまっていたようだ....

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柳屋(中央区人形町) [その他]

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昼飯食べようと、水天宮通りをぶらぶら歩いていたら、行列ができている店があったんで、何屋さんかと見てみたら、たい焼き屋の「柳屋」であった。
たい焼き好きなオレとしては、急激に食べたくなったんで、とりあえずここから近くの店で昼飯に親子丼を食べた後に、この行列に並んだ。
この行列、見えている店先だけでなく、ほぼ倍の人数が店内に並んでおり、予想以上の長丁場となってしまった。
中では、黙々かつテキパキとたい焼きを作っていた。
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誰かが写真撮影の許可を貰っていたんで、便乗して撮らせてもらった。
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で、2個購入。
高級たい焼きって幟がありますが、1個130円
パリっとしてて、おいしかったです。

柳屋



タグ:グルメ
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柏尾古戦場(山梨県甲州市) [その他]

大善寺から甲州街道を東京方面へ向い、最初に出会う信号辺りが、柏尾古戦場である。
kashiwao1.JPG(後ろの山が柏尾山)
柏尾の戦いは、幕府軍甲州鎮撫隊と新政府軍が戦い、幕府軍が敗北、敗走した戦である。
甲州鎮撫隊を率いていたのは新選組の近藤勇で、東海道を進軍してくる新政府軍を迎撃すべく、甲府城へ目指していたが、行軍途中に近藤勇や土方歳三の故郷があったことから、行軍のスピードが遅く、甲府城は1日の差で新政府軍が入城する。
近藤勇は柏尾山向いの白平山に布陣したが、新政府軍の板垣退助が隊を3つに分け、1隊を柏尾山を迂回させ、さらに一隊を岩崎山へ進軍させ、3方より攻撃を加えた為、2時間足らずの戦闘で敗走した。
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近藤勇はその後千葉県の流山へ向ったが、そこで捕縛され、処刑されてしまう。
近藤勇の戊辰戦争は、この戦いが最初で最後になってしまった。

この戦いは様々な要素が含まれており、非常に興味深い。
ますは、行軍ルートに近藤勇の故郷である調布があったこと。
農民から旗本にまで出世した近藤や土方にとっては、故郷に錦を飾るわけで、故郷挙げての歓迎が待っていたのである。
これが行軍スピードを下げてしまい、たった1日の差で新政府軍に甲府城を譲ってしまう結果となってしまったのだ。

そして、装備が旧態然としており、兵も素人の寄せ集めな鎮撫隊では、まともな戦闘などできなかったこと。
この戦の際、土方歳三が江戸へ救援要請に向っており、不在だったことも大きい。
なぜなら、鳥羽伏見の戦いを経験しており、槍刀の時代ではないことがわかっていたからだ。

時代は、幕府を必要としなかったのだろう。
また、近藤勇個人としては、サムライとして、処刑ではなく戦死を望んでいたかもしれない。


この近藤勇像の横で、車をUターンしようとバックしたら、車止めの石にリアをぶつけた...
幸いにも傷や破損はなかったが、心はしばらく凹み気味だった・・・
タグ:新選組
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