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武山防空高角砲台跡(神奈川県横須賀市) [戦争遺跡]

前回登った武山から東の尾根に続く山へ向う。

その山は戦時中に高角砲が設置されていたことから、砲台山と呼ばれている。
その高角砲跡が山頂に残っているとのことで、探索してきた。

武山から歩くこと10分ちょいで、コンクリの水槽が現れる。
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この砲台施設の生活用水か発電所用水のどちらかだろう。
さらに進むと砲台山山頂時方向と三浦富士方向に分岐する。
もちろん砲台山へ向う。
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その道は、砲台が設置された際に造られた軍道。
その軍道をそのまま進むと左側に2つのコンクリの大きな柱が現れる。
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探照灯の台座と言われてる物件。
戦後の接収された資料によると、接収物件の中に須式110センチ探照灯とあるので、
それがココに設置されていたのだろう。
山頂間近の道脇に佇むこの柱は、古代の信仰施設の柱のような雰囲気がする。

山頂には海上保安庁の受信アンテナが立っているが、そのすぐ脇にあるのがコレ
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高角砲台跡。
かなり保存状態のいい砲台跡である。
ここには12.7センチ連装高角砲が設置されていた。
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降りてみる。
周辺に開いている穴は、砲弾を置く砲側場と呼ばれるもの。
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ちょっと崩落しかけている穴は、砲員待機所。
砲台跡から見た海上保安庁のアンテナ。
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ちょうどこのアンテナのメンテナンス作業を行っており、その脇に車が停まっていたが、あの軍道を通って来るとは....

最初の砲台の写真の奥に写っている藪の中にも砲台跡があるとのことで、

進みます

フェンスで囲まれた場所があったのだが、フェンスが完全に崩落していて、
全く意味をなしていない。

ので、進みます。
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崩落したフェンス。
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写真ではわかり辛いか、藪化しているが結構キレイに残っている。
待機所も崩落しておらず、整備すれば先の砲台跡のような感じになるだろう。
2基並んでる砲台跡は、かなりいい絵になるのになぁ~。

その他に兵舎の基礎や高射機銃掩体があるらしいのだが、入口がわからず見つけられなかった。
この武山~砲台山の登山は、結構気持ち良かったので、また行くつもりなので、
その他の探索はその時の課題としよう。
タグ:戦争遺跡
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陸軍技術研究所富津試験場(千葉県富津市) [戦争遺跡]

前回は明治期の元洲砲台の遺構を紹介したが、今回は陸軍技術研究所富津試験場の遺構を探索するよ。

元洲砲台は大正期の要塞整備によって廃止となったが、周辺地域は砲や銃器の耐久性や命中度等の性能試験場として整備された。
その試験場の遺構を見てみることとする。

中の島(元洲砲台跡)の正面の橋を渡ると、小さな駐車場があるのだが、その茂みの中にあるのが、コレ。
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放列施設と呼ばれる試射施設で、射撃口が設けられたコンクリ壁。
右側の道を挟んで、2つの施設が並んでいる。
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射撃口。
この放列施設を対を成す、銃弾を打込む施設がコレ。
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カマボコ状のドーム型施設で、射入窖と呼ばれるもの。
ここに機関銃や小銃が撃ち込まれるため、分厚いコンクリで出来ている。
激しいクモの巣の嵐で、これ以上は近づけなかった。
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後ろから見たところ。

放列施設から藪に入っていくと、「ボウズ」と呼ばれている監視所が現れる。
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前に回ってみる。
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何とも愛嬌のある風貌?である。旧ザクかアッガイのようだ(笑
中に入る。
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開口部の方向には、今は何もないので、昔は何かの試験場があったのだろう。
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全体を見ると、人生ゲームのコマのように見えてきた.....

海岸には、海岸を監視する警戒哨がひと際目立っている。
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近づくと.....思いのほか大きいっ。
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早速入ってみる...
中には、定番のエロ本が落ちていた。定番すぎて笑ってしまった。
開口部から海を見ると、
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海側は、不審船の監視をしていたと言われている。
反対側は藪。
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こちら側は、試撃の着弾を確認していたと言われている。
この試験場では大砲や列車砲の試射も行っていたと言う。
その藪の中には、先の監視所と同じタイプの施設があった。

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ちょこんと見える監視所へ、藪コギしながら向う。
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なんか、半分馬埋まってるよ....
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中はゴミ捨て場と化していた。悲しい姿だねぇ~

この監視所はもう1基あるはずなのだが、かなり探したが見つからなかった。

◆参考文献
写真と地図で読む!知られざる軍都東京
写真と地図で読む!知られざる軍都東京 (洋泉社MOOK―シリーズStartLine)
東京・千葉・神奈川の代表的な戦跡が紹介されている、初級編的書籍。
これを見ながら、結構巡りました。
タグ:戦争遺跡
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元洲堡塁砲台(千葉県富津市) [戦争遺跡]

現在の富津公園一帯は、幕末の頃から江戸防衛の重要地とされ、明治14年から3年掛けて元洲堡塁砲台が築かれた。
三浦半島の観音崎の砲台、猿島砲台そして、元洲砲台が東京湾の防衛ラインとなるのだが、当時の砲の射程距離では完全にカバーできず、第一~第三海堡が完成してはじめて防衛ラインが出来上がる。
しかし海堡が完成する頃には、航空戦術によって、固定砲台の存在意義は低下し、大正4年に、元洲砲台は廃止された。
その後は、陸軍の富津試験場として、大砲や銃の試験が行われていたという。

その元洲堡塁砲台に行ってみた。

アクアラインで東京湾を横断する。途中で「うみほたる」に寄って休息。
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高速1000円(今では800円?)になって以来、あの閑古鳥ラインであったアクアラインは、今では渋滞路線となってしまった。
休日に、うみほたるに停めるのはまず不可能だ.....

富津公園の駐車場に車を停めて、元洲砲台跡に向う。
元洲砲台は、海から海水を引き入れて水掘で囲まれている。
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近世城郭っぽい水掘で、なかなかいい雰囲気だ。
橋を渡って、中の島と呼ばれる元洲砲台跡に向う。
正面は、虎口のように石垣で囲まれた入口がある。
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内側から見た入口と橋。
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高台の方歩く。周辺には砲台施設の遺構が至るところにある。
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弾薬庫の側壁らしきレンガ積み。
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砲座跡。
28インチ榴弾砲か12インチ加農砲が設置されていたとのこと。
28Hは6門、12Kは4門設置されていた。
そのうち28Hの2門は、日露戦争時には大陸に運ばれ、旅順攻略に活躍したという。
上から見たところ。
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比較的保存は良いほうだが、砲床は完全に埋もれていたりして、公園化の際、かなり手が入れられたようだ。

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通風筒×2。
中は埋められている。通風筒は、弾薬庫の付属品であるので、この下に弾薬庫があったのだろう。
位置的からすると、先の砲座の側砲庫だったと思われる。
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一番の高台の直下にあるレンガとコンクリの施設。
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このイギリス積みでできているレンガの部屋は、弾薬庫。
2、3畳程度の狭い部屋なので、予備庫なのかも。
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上に登ってみる。
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一部コンクリで塞がれているが、ここが観測所である。
観測所は、明治期の砲台には砲座の近くに設置されていたので、砲台巡りの際にはチェックしたい。
ここのように一番の見所の場合には問題ないが、藪の中にあったりして、見落としがちなので。
公園内の各所にあるコンクリやレンガ、石垣を見て、不思議に思ったカップルが、この観測所付近を掃除していたおじさんに「ここは何なの?」と質問していた。
おじさんに昔の砲台跡と聞いてびっくりしていたが、これが普通の反応だろう。
むしろ、ボロボロのコンクリやレンガなんかを張り切って写真取りまくっている自分のほうが、変なのだよ(笑)

観測所近くにある、砲座跡と思われるコンクリ。
砲ではなく、銃座?
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観測所近くにある、観測壕。
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展望台を挟んで向こう側にも、もう1つある。
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砲座跡は数え忘れたが、写真を確認したら、4箇所。
中には、ちょっと藪化しているところもあり、もう少し手入れすればな~と思ってみたりする。

各砲座を結ぶ壁は、城の石垣みたいで、いい感じ。
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先の入口の橋と反対側となる橋。
こちらの方が堀の幅が広い。
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帰りのうみほたるで、撮影。
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元洲堡塁砲台


タグ:戦争遺跡
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大坂城内の戦争遺跡 [戦争遺跡]

明治になり大阪城内には、陸軍の大阪鎮台が置かれ、その後大阪鎮台は第四師団となった。
また周辺には、大阪砲兵工廠も建てられ、戦前には東洋一の軍需工場地帯にもなっていった。
終戦間近に一帯が大空襲により被害を受けたが、今でも幾つかの遺構をみることができる。
大坂城探索をした際に、これらの遺構も見て回った。

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桜門の対面にある、大坂城公園城内詰所の門。
この門は、陸軍刑務所の門である。
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軍法会議で判決を受けた軍人が服役した刑務所で、今では建物は無く、この門と外壁だけ残っている。

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本丸南側の空堀に、地下壕の入口が残っているのだが、草ボーボーで特定できず。

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本丸に建つ、第四師団司令部。
昭和6年に完成し、昭和15年に中部軍司令部の管轄となった。
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ドイツの古城を模してデザインされたとされる建物で、天守閣が復元される際に集められた市民の募金を使って建てられた。
これは、天守閣を復元し、軍用地である城内を公園化するのを認める代わりに、募金を使って建てたというわけ。
軍縮で財政難となっていた軍部と、市民の願いが一致したってことですかね。
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ちなみに市民から集まった募金は150万円。
そのうち天守閣には48万円、この司令部には80万が使われた。
ちょっと・・・比率おかしくねぇ(w

この一帯は、終戦間近の8月14日に大空襲があり、大きな被害を出した。
その痕跡を、天守閣の石垣に見ることができる。
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南西側に残る1t爆弾による焼け跡。

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北東側の1t爆弾による衝撃跡。
衝撃によって、石垣がズレてしまっており、爆発のすさまじさを物語っている。

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西の丸も高麗門の近くに置かれている唐風の狛犬。
白玉石製の狛犬で、明代のものとされる。
昭和15年に、中国に進駐していた日本軍より、修理する兵器とともに送られてきたもの。
戦後に返還の動きがあったが、日中友好として、中国から大阪市に寄贈された。

京橋出てすぐのところに、砲兵工廠の化学分析場の建物が残っている。
ネオルネサンス風の建物で、大正8年に建てられたもの。
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戦後は大阪大学工学部として使われたこともあったが、現在は使われておらず閉鎖されている。
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建物を横から見たところ。
ぜひ保存して欲しい物件である。
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砲兵工廠の石碑。

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化学分析場の前にあるレンガの建物。
一見倉庫のようだが.....便所である。
もちろん今は使われていない。

昭和59年まで砲兵工廠の本館が現存していたが、大坂城ホールを建設の為、
保存に対する市民の声もむなしく、取り壊された。
化学分析場はなんとか残して欲しいもんだねぇ
タグ:戦争遺跡
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茂原市掩体壕群(千葉県茂原市) [戦争遺跡]

茂原には、多くの掩体壕が現存しているとのことで探索に出かけた。
茂原市は、小倉優子に言わせれば、ここが「コリン星」だそうだ。
コリン星はさておき....

今回は珍しく電車で向った。現地での探索を考えると、歩きの方が向いてるかなと思ったからだ。
総武線で千葉まで行き、そこから外房線に乗ること30分で、目的地のコリン星に着く。
途中、両国あたりで急にトイレに行きたくなり、千葉まではと粘ったが、
さすがに生理的な現象には勝てず、西船橋で降りてトイレに急行。
....まじでヤバかった(w

目的地である新茂原駅の周辺は、見事なまでに何もない。
ちょうど昼過ぎだったんで、着いたら何か食べようと思ってたんだが。

しょうがないんで、即掩体壕探索へGO!
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R293を歩いてると、畑の中にポツンと佇む掩体壕を見つける。
開口側を塞いで、倉庫として使用されている。

そこからR293に沿ってちょっと歩くと、茂原市で保存している掩体壕の案内板が現れ、その方向へ向かう。
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デカっ...保存してる掩体壕はさっきのより一回り大きい。
艦攻爆撃機用の壕だろう。
この掩体壕のみ、市で管理・保存されている。
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鉄筋はしっかりと入ってるようだが、粗悪なコンクリだ。
戦況悪化による物資不足であったことが、垣間見ることができる。
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横から見たところ。
壕には土が盛られている。掩体壕は、カモフラージュの為、このように土を盛られたり、木々で囲まれることが通例である。
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後方を見ると、古墳や塚に見える。
いくらカモフラージュしようにも空から見ると、航空基地で、しかも滑走路の近くにある塚なんて、掩体壕にしか見えず、バレバレだったようだ。
ただ、掩体壕に入っていて破壊されたというのはあまり聞かない。
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指定掩体壕からR293挟んですぐのところに、2基に掩体壕を発見できる。
1基は、タイヤの走行跡が残ってることから、隣にある会社の車庫として使用されてるようだ。
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内壁を見ると、木のような物質が沢山付いているのだが、何だろうか?
コンクリを流し込む際に、掩体壕の砂型となった土塁に敷いた材木片か?
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もう1基は、田んぼの真ん中にあるため近づけなかったが、こちらは物置に使われてるらしい。
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R293に戻り、しばし探索。
住宅街の中に1基発見。
回り込んで、正面から見てみる。
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カタチがT字型で、後方がかなり絞ってあるタイプ。
電線が引き込まれていることから、ちょっとした倉庫というわけではなさそうだ
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元来た道を戻ってると、配送センターのような敷地の奥に1基発見。煙突の後ろに見える塚が掩体壕。
いろいろ道を回りこんでみたが、敷地を通らないと接近できないようだ...
勝手に敷地に入る訳も行かず、遠くからの展望となる。
保存されてる掩体壕に戻り、さらに他の掩体壕を探す。
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この掩体壕の前の道は、航空機の誘導路だったとのこと。
この元誘導路を進むと、住宅地の中に掩体壕を発見した。
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横が駐車場だったんで、近づいていくと、手前の家の犬と目が合い、吼えられたが、
お前に興味ねぇ~よとばかりに無視して掩体壕に近づく。
ここは、車庫&倉庫として使われてる。カタチはT字型。
近くで見てないが、状態は良さげ。
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その後、昔の滑走路だった道を見てから、新茂原駅へ戻った。
滑走路は、歩道と工場の壁のせいで、幅がせまくなっており、今の車道の幅では戦闘機は飛ばせませんね。
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戻る途中、車が工場の壁におもいっきりぶつかった跡を発見。
車輪の幅からすると、軽か?
結局、7基の掩体壕しか見つけれなかったが、11基は現存してるらしいので、またの機会とする。
(本記事は、他サイトで書いたものを追記修正し、こちらに移行したものです)

タグ:戦争遺跡
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金沢城周辺の戦争遺跡 [戦争遺跡]

明治に入ってから金沢城は存城処分となったが、陸軍の所轄となり、日露戦争を見据えて、明治31年に陸軍第九師団が置かれた。
金沢は戦災を受けなかった為、これら陸軍の施設が多く残されている。
これらの金沢城周辺の戦跡を見ていくこととする。
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二の丸広場にある切手門を入ると、ちょっと場違いな洋館がポツンと建っている。
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これがその洋館。
この洋館は明治36年に建てられた、歩兵第六旅団司令部庁舎である。
戦後は金沢大学の施設として使われていたらしいが、今は倉庫となっている。
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基礎はレンガ積みとなっている。
通風孔の枠に陸軍の星マークが入っている。陸軍の施設ではよく見られる。
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後ろにまわると、真新しい建物が併設されている。元々庁舎には、渡り廊下とその先に湯沸し場や便所の別棟が在ったらしいので、それが復元されたのだろうか。
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本丸と二の丸の間の石垣をくり抜いて造られたトンネル。
このトンネルは、弾薬庫通路として造られたもの。
反対側から見るとこんな感じ。
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今ではトンネルしか残っていないので、知らないとチラ見されておしまいな感じだ。
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トンネルの先にある鶴丸倉庫。
幕末に建てられた土蔵造りの建物で、明治以降は被服倉庫として使用された。
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石川門から兼六園へ向う。
人で溢れる兼六園は完全にスルーし、県立美術館の方へ向う。
その県立美術館の隣に兼六園広坂休憩館がある。
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この休憩館は、陸軍第九師団長官舎だった建物である。
かなり改築、修築されているが、面影は残っていると思う。
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見学はご自由にとのことで、中に入ってみる。
内部の装飾や備品も今のものらしく、師団長官舎の面影や雰囲気が感じられなかった。
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美術館の隣に、3棟のレンガ倉庫が立ち並んでいる。
明治42年~大正3年に建てられた倉庫で、兵器庫として使われていた。
現在は、歴史博物館として開放されている。
3×13(14かも)スパンの非常に大きな倉庫で、3棟並んでる姿は圧巻。
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鎧戸や鉄格子が兵器庫としての雰囲気をだしている。

護国神社の隣に2棟の洋風建築がある。
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このバロック風建築は、金沢陸軍偕行社の建物で、明治31年に建てられた。
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通風孔の格子には、やはり陸軍の星マークが入っている。
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丸窓付きの破風や避雷針が印象的。
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金沢陸軍偕行社の隣に建っているのが、第九師団司令部庁舎。
元は二の丸に建っていたが、昭和43年にこちらに移築された。
移築の際、左右共に半分に切られたとのことで、ちょっとずんぐりした姿になっている。
場所の問題からだろうが、そのまま移築して欲しかったものだ。

第九師団は、日中戦争では南京攻略に参加し、その後は沖縄防衛の為首里に駐屯し、沖縄防衛の中核部隊となっていたが、台湾防衛の為、台湾へ転出されてしまい、結果アメリカと交戦しないまま終戦を迎えた師団となったのである。

参考文献:写真と地図で読む!知られざる大日本帝国の遺産
写真と地図で読む!知られざる大日本帝国の遺産 (洋泉社MOOK シリーズStartLine 14)

タグ: 戦争遺跡
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駒沢練兵場跡(世田谷区) [戦争遺跡]

三軒茶屋は人気のあるスポットが沢山あり、若者が多く集まる街である。
戦前は各部隊の営所が集まり、また駒場練兵場があり、これまた多くの人が集まる場所であったのだ。
今でもわずかながら残る、これらの遺構を見ていくこととする。

昭和女子大の南にある住宅地の中に古い木造建築がある。
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これは野砲兵第一連隊の木造兵舎である。
多くの兵舎があったが、今では残るのはこの一棟のみ。
現在では一部韓国会館として使われている。
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かなり歪んで傾いている。使われていない学校の校舎のような雰囲気である。
通っていた小学校にコレに似た木造校舎があったことを、ふと思い出した。
その校舎は、図工で年に1、2回使う程度で、そんなに行くこともないのだが、怪しさからかなり記憶に残っている。
やはりというか、いわくの話の1つや2つはあったが、今思えばたわいも無い話だったりする。
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先の兵舎の近くにある公園の片隅に大小の馬魂碑が建てられている。騎兵の馬や運搬用等、軍は多くの馬を必要とし、大切にされていたのだ。
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馬魂碑の近くに、「軍馬梨山号」と彫られた碑も建っている。誰かの愛馬だったのだろう。
池尻大橋駅の南側の池尻あたりは、駒沢練兵場であった。
その北側に位置するところに、糧秣廠馬糧倉庫が現存している。
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これが糧秣廠馬糧倉庫であった事を知らないと、はっきり言って軍の遺構であるとは、だれも思わない。
現在では、ヤマト運輸と生協の倉庫として使われている。
ちなみに糧秣廠馬糧倉庫とは、兵馬の餌を保管、管理していた倉庫のこと。
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糧秣廠馬糧倉庫の近くにある東京栄養食糧専門学校の脇道を進んだところに、陸軍の結界石が残っている。
軍の遺構はほとんど消滅してしまっている上、知らないとスルーしてしまいそうな物件ばかりなので、文献等で下調べは必要だと思う。
今回は三軒茶屋~池尻の南側を探索したが、北側にも幾つか遺構が残っているので、いづれ探索するつもりだ。

参考文献:写真と地図で読む!知られざる軍都東京 洋泉社
写真と地図で読む!知られざる軍都東京 (洋泉社MOOK―シリーズStartLine)
東京とその近郊の戦跡巡りの入門書といった感じで、わかりやすい。掲載されている地図は、当時の施設の配置等はわかりやすいのだが、散歩に使うには簡易すぎるので、別の地図を持参するほうがいいかも。

タグ:戦争遺跡
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松代象山地下壕(長野県長野市) [戦争遺跡]

戦争末期、東京は帝都機能は果たしておらず、本土決戦へ向けての司令部としては問題があった。そこで大本営を内陸部に位置する松代へ移転する計画を立てられた。
松代にある三山に作られた大本営は、終戦間近ということもあり、地下壕として作られたのだった。
三山のうち、象山は内部公開されている。この象山には、政府機関・日本放送協会・中央電話局が入る予定で、終戦時には8割方できていたという。
象山地下壕の全体と公開されている範囲。
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入口にはヘルメット着用となっているが、無くても入れる。
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入口。
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入口からしばらく下りが続く。
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側点跡。
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トロッコの枕木跡。
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削岩機で開いた穴。
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削岩機ロッドが刺さったまま残っている。
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部分的に補強して公開している。
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坑道は幅4mの馬蹄型。
象山地下壕は全長5700mで、公開されているのは約500mである。
平日の昼前に訪問したのだが、小学生の社会見学の集団や観光客など、人が結構いて驚いた。社会見学で、この地下壕から学べることは多いだろう。実際、広島で育った自分も、小学3年で平和記念館へ遠足で行ってかなり衝撃を受け、色々と考えさせられたものである。
舞鶴山の地下壕にも寄りたかったが工事中とのことで、公開されていなかった為、いづれまた訪れることとしよう。

参考文献:戦争遺産探訪 日本編 (文春新書)
戦争遺産探訪 日本編 (文春新書)

ぶらりんザムライ記事:広島大本営⇒広島城内の戦争遺

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B-29爆撃機のエンジン(東京都青梅市) [戦争遺跡]

B-29...当時では反則級の爆撃機で、日本の高射砲、戦闘機等の防衛能力では全く対応できなかった。

1945年4月2日に120機からなる編隊で、中島飛行機の武蔵製作所を空襲したのだが、
そのうちの1機が高射砲で被弾し、青梅の山林に墜落した。
その機体のエンジン1基が多摩川に落ち、昭和54年に地元に方々のより引き揚げられ、青梅郷土博物館に保管されている。
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郷土博物館のエントランスに保管してある、ライトR-3350サイクロンエンジン。
星型複列18気筒で54800cc。7つのシリンダーが残っている。
B-29はこのエンジンが4基搭載されており、高高度、高速での飛行が可能で、
ターボ過給機が開発できなかった当時の日本の戦闘機ではまともに迎撃ができず、
海軍の月光の斜め機銃、陸軍の三式(飛燕)の空対特攻等、トリッキーな方法でしか対抗できなかった。
とは言え、この無敵の爆撃機も万能ではなく、エンジントラブルが多発し、終戦まで解消しきれていない。
少しでも不調なら、即新品に交換し、だましだまし運用していたのだ。
ここまでできるアメリカの工業力、生産能力に正攻法では太刀打ちできるハズもないわけである。
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大学の頃、設計工学の講義の教授から、戦時中に墜落したB-29の調査、検討を行ったというエピソードを授業中よく聞かされた。
調査した際、1部品であるボールネジを見て、こんなものを作れる国と戦っても勝てるわけない....
と研究員ながら思ったとも言っていた。
その教授の3つの昔話...B-29の調査、ゼロ戦の開発に携わる、東工大で1つを除き全て優
が話される度に、学生はクスっと笑っていた。
1年間に何度、同じ話を聞かされたことか(笑)
懐かしい限りである。

参考文献
TOKYO軍事遺跡 飯田則夫著
死闘の本土上空―B-29対日本空軍 渡辺洋二著
タグ:戦争遺跡
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香取海軍航空基地跡(千葉県旭市) [戦争遺跡]

総武本線の干潟駅の北部に広がる工業団地は、戦前は海軍の香取航空基地であったところである。
香取航空基地は昭和18年に完成し、全長1500m×幅100mの滑走路2本が中央で直角に交差している、大型航空基地であった。
現在でも滑走路は残っており、日清紡績株式会社の自動車のブレーキのテストコースになってる。ただし、見学はできない。
この滑走路跡の周辺に掩体壕が3基残っているとのことで、訪問した。
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田んぼの中に佇む掩体壕。ここには2基並んでいるのだが、2ショットの写真を何故か撮り忘れてしまっていた。
近くに車を停めるところがなかったので、遠くからの撮影となってしまった。
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R126号側にもう1基残っている。先の2基は匝瑳(やうさ)市だが、こちらは旭市。
この掩体壕には、旭市の説明板がある。
海軍と陸軍では掩体壕の多少形状が異なるのだが、掩体壕の正面開口部が凸型になっているのが海軍の特徴である。
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旭緑地公園内に展示してある、自衛隊が練習機として使用していたノースアメリカンT-6 テキサン練習機。
アメリカの戦争映画で、零戦に扮することが多い機体である。
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調布陸軍航空基地跡

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