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西念寺(新宿区若葉) [江戸の風情]

観音坂を上り、右手の小道を進み、突き当たりの右手が西念寺の入り口だ。
西念寺には、服部半蔵の墓がある。
講談話や時代小説、時代劇、ハットリ君と様々なジャンルに引っ張りだこな方だニンニンっ。
普通思い描く黒装束の千葉真一的影の軍団とは異なり、徳川十六将にも数えられた武将である。
徳川家康の勢力が大きくなるにつれ、伊賀出身の半蔵が伊賀者の指導者となっていったのだろう。
「鬼の半増」と知らた槍の名手で、家康から拝領した槍が伝わっているという。

本堂。左手に寺務所。

服部半蔵の宝篋印塔(墓)。
半蔵は、家康の長男信康の切腹のときの介錯を命ぜられたが果たすことができず、小田原の役の後、信康の冥福を祈るため仏門に入った。 家康より、寺の建立の命をうけたが、麹町に建立中に死去した。その後江戸城拡張に伴い、西念寺は、四谷に移転してきた。


地下鉄の駅名にもなっている半蔵門だが、服部半蔵が束ねる伊賀者が警備を任されていたことから名付けられたもの。
ここでいう半蔵は、2代目半蔵である。

2008.12.25 追加レポート
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半蔵の宝篋印塔の手前にある千手観音の坐像。
一部欠けているが、舟形光背の石仏。光背部の千手が幾何学形っぽく、柔らかさを感じる。

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千手観音像の左隣の石仏群。
地蔵菩薩、如意輪観音、阿弥陀如来。
本堂の右脇を進むと、半蔵が建立した岡崎信康(徳川家康長男)の供養塔がある。
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2.5mもある、大きな五輪塔である。

2007.04.08 初稿
2008.12.25 画像追加


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勝興寺(新宿区須賀町) [江戸の風情]

西應寺の向かいにあるのが、勝興寺。

本堂は修築中。コンクリの本堂ですが、屋根の部分にはかなり木材が使われている。

文化財を保護の為に修築する際、修築過程や経過を写真で説明するのはよく見かけるが、コンクリ仏閣建造物の修築でこのような説明は初めてです。修築過程がよくわかる内容で、また子供が遊んでるシーンもありほのぼのとして好感度だ。

奪衣婆の堂。奪衣婆とは、亡者が三途の川を渡る祭、着物を奪い、それを大木に掛けて枝の垂れ具合で罪の軽重を計り、これから渡る瀬を決めた、十王の信仰における閻魔大王の一族とされる老婆(神?)である。

先ほどの奪衣婆より一回りも二回りも小さい閻魔様。
穏やかな表情で、一般的な強面な閻魔様でないので、閻魔様と認識されないかもしれない。

修築関係の車が多く、聖観音様もちょっと窮屈そう...
2008.12.23 追加レポート

前回訪問時には修築中であった本堂は、修築が完了して、
ピカピカの銅葺屋根がまばゆい。
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コンクリの建物だが、屋根部は木造となっている。
軒下の垂木は、このように木製。向拝柱や虹梁の庇部は、屋根と同様に木製でもよかったのでは。
墓地の奥、本堂の左奥には、横須賀藩(遠江)西尾家の大名墓が立ち並んでいる。
勝興寺は西尾家の菩提寺だが、こちらに眠っているのは、4~8代目の妻子の墓である。
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墓地入口の左側の地蔵様。
墓地には江戸時代に罪人を斬首刑を実行した、首切りの山田朝右衛門の墓もあるのだが、見つけれなかった。誰かに聞こうと思ったのだが、境内に誰もいなかったので断念した。

門を入ってしばらく続く壁の上のペットボトル。
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壁の白とペットボトルのクリアが合っていて、クールだね。
2007.04.02 初稿
2008.12.23 追加改訂

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義士祭(泉岳寺) [江戸の風情]

12月14日は赤穂義士が吉良邸討ち入りの日ということで、各地にある赤穂義士所縁の地では祭やイベントが行われる。
赤穂義士や播州浅野家の菩提寺である泉岳寺では、毎年義士祭が行われている。
そんな泉岳寺の義士祭に、行ってみた。
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門前から屋台が並び、人の流れが途切れない。
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境内の中も屋台と参拝客でいっぱいである。
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墓所への参拝は、非常に長い行列になっている。
この行列は本堂の前を通り、寺務所の前で曲がり、中門の脇まで続いている。
待ちが1時間以上とのことで、今回はパスした。
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義士に扮した行列が帰ってくると、ひとだかりはピークとなる。
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午前中は小雨が降り、かなり寒い日ではあったが、
多くの参拝客で溢れ、赤穂義士に対する熱い思いでいっぱいである。
境内に外人が多いのが気になったが、それ以上に一眼レフをもったおばあさんが多いのにはもっと気になった。

■ぶらりんザムライ記事
泉岳寺
タグ: 赤穂浪士
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寛永寺 [江戸の風情]

東叡山 寛永寺

江戸幕府2代将軍徳川秀忠と高僧天海が発願して建立した、徳川家菩提寺。
将軍15代のうち、6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が寛永寺に眠る。
徳川家の菩提寺らしく、堂舎32、諸院36坊、寺領1万1790石と面積、格式とも巨刹であった。
当時の寛永寺は現在の上野公園全域におよび、現在の寛永寺は36坊の1つであった大慈院に移設されたものである。山号の東叡山は、京都の鬼門を守る比叡山に対し、江戸の鬼門を守る意味で、東の比叡山という意味から名付けられたものである。
幕末の彰義隊による上野戦争の戦場になり、主な堂宇は焼失し、残った建造物も昭和20年の空襲で、ほとんどが焼失してしまう。寛永寺に限ったことではないが、戦争という人災によって、歴史的な建造物が失われたのは悲しい限りである。

巨刹寛永寺の面影を見てみることにする。
現在の寛永寺
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根本中堂は、川越の喜多院本地堂を明治12年に移築されたもの。現在の寛永寺は、江戸時代の巨刹の面影はあまり感じられず、寂しさという静けさが漂う。大きな中堂を要しながらも、参拝や観光客も少ないため、さらに寂しさに拍車をかける。
敷地内にある幼稚園の園児の賑やかな声のみが江戸の賑わいの面影か。
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墓地方面に向かうとポツンと佇む、常憲院(綱吉)霊廟勅額門(霊廟の門)。
勅額門は切妻造の前後軒唐破風付四脚門。
霊廟そのものは、空襲で焼失。
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寛永寺の敷地から出て道沿いに歩くと現れる、厳有院(家綱)霊廟勅額門。
(東京国立博物館のちょうど裏側)
あいにく道路工事のため、よく見れない...
こちらも霊廟そのものは、空襲で焼失。
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輪王寺の山門は、旧本坊表門(黒門)を移築したもの。
もとは、国立博物館の正門の位置にあった。
門には、銃弾後が残り、上野戦争の激しさを物語っている。
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上野公園内にある、京都の清水寺を模して建立された清水観音堂。
江戸時代には名所図絵にも描かれ、かなり賑わっていたようだ。
昔はここから不忍池の弁天堂が見れたが、いまでは見えずその面影はない。
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観音堂の中にある絵馬。
上野戦争を描いている。絵馬の横には、当時の砲弾が奉納?されている。
右側のスタッド(鋲)が付いているのが、4斤榴弾。フランス式四斤山砲で使用されるもの。構造、鋳造技術的に国産化が可能であった為、幕末~明治初期と最も活躍した野戦砲である。
左側は、おそらくアームストロング砲の2.5インチ弾だと思う。
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上野動物園内にある旧寛永寺五重塔。
現在のものは1639年に土井利勝によって再建されたもの。
もとは上野東照宮の一部として建てられ、明治になって寛永寺所有となった。
旧となっているのは、現在の管理が寛永寺から東京都に移管されたため。
動物園外からの撮影は、東照宮側からしかないのだが、木が邪魔でしょうがない。
2008.12.12 追記
厳有院(家綱)霊廟勅額門を見てきた。
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その他、上野公園内に時の鐘が現存、円通寺(南千住)に総門が移築。
15代慶喜の墓が谷中霊園内にある。(慶喜のみ霊廟が作られなかった)
寛永寺の遺構は、上野公園内、周辺にあるだけに、上野公園の散歩や博物館、美術館、動物園など、レジャーどころ満載。

参考文献:武器と防具~幕末編 新紀元社
武器と防具 幕末編 [Truth In Fantasy]

2006.12.16 初稿
2008.12.12 追記および画像変更
この寛永寺が「ぶらりんザムライ」の初記事である。

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泉岳寺(港区高輪) [江戸の風情]

泉岳寺は、1612年に徳川家康が今川義元の菩提を伴う為に創建した寺院。
徳川家の加護の元、大寺院として発展したが、特に有名となったのは、忠臣蔵47士の菩提寺となったことだろう。
赤穂義士が泉岳寺に埋葬されたのは、ここが主家の浅野家の菩提寺だったからである。
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1863年に再建された、四脚門の中門。
総檜造りの門で、昭和7年に大修理が行われている。
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中門と山門の間に大石内蔵助像が建っている。連判状を手にして、東の方向(江戸の方向)を睨んでいる。
1832年に再建された山門。
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2階には十六羅漢像を安置し、1階天井には江戸三龍と呼ばれた銅彫大蟠龍がはめ込まれている。

本堂は空襲で焼失、昭和28年に再建されたもの。
本尊の釈迦如来、道元禅師・瑩山禅師、大石内蔵助の守り本尊である摩利支天が祀られている。
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額の獅子吼は、釈迦の説法を表している。
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首洗いの井戸。
赤穂義士が、吉良上野介の首級をこの井戸で洗い、主君の浅野内匠頭の墓前に供えて報告したという。
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赤穂義士の墓域の入口にある門。
この門は、浅野家上屋敷の裏門を明治時代に移築したもの。
赤穂藩浅野家は安芸浅野家の分家で、浅野長政の三男長重からの流れである。赤穂藩主となったのは長重の嫡子長直で、長直は元禄赤穂事件の浅野内匠頭長矩の祖父にあたる。
赤穂義士の墓。
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47士の墓は、切腹前に預けられた家毎に並べられている。
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大石内蔵助の墓。
赤穂義士は今も昔も変わらず人気で、参拝者が絶えない。
訪問時が遅かった為、赤穂義士記念館は閉館していたのは、ちょっと残念である。

■赤穂義士関連の寺
明星院(赤穂義士木像のある寺)
聖光寺(大石内蔵助親子の供養塔のある寺)

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覚林寺(港区白金台) [江戸の風情]

目黒通りと桜田通りの交差点にあたるところに、覚林寺がある。
朝鮮出兵の折、加藤清正によって連行されてきた朝鮮王国の王子の1人が出家し、日蓮宗誕生寺の住職の日延上人となり、
隠居後の1631年に熊本藩の中屋敷であった当地を幕府より承り、清正の随身仏釈迦牟尼仏を本尊にして開いたのが覚林寺である。
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目黒通りに面して建つ山門は、両側に脇門を持つ薬医門。
覚林寺は1845年に大火で全焼し、山門は1856年に再建されたもの。装飾部材がほとんどない、非常にシンプルな構造で、現在の寺では一番古い建造物である。
加藤清正を祀る、清正公堂。
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1865年の再建された堂。
権現造りの拝殿で、シンプルな山門と比較して装飾が凝りまくりな建物だ。
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大額は有栖川宮熾仁親王の書
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堂のガラスは、加藤家の家紋の「蛇の目」と「桔梗」の紋
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入母屋唐破風造りの毘沙門堂。
山手七福神の毘沙門天を祀る。最近建てられたようで、ピッカピカだ。朱印や七福神グッズは何も購入していないが、ここで山手七福神巡りは制覇だ。
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毘沙門堂と並ぶ流造りの稲荷社。こちらも同時期に建てられたようで、新品。
訪問時(2007年3月頃)は、本堂、境内と改装中で、かなりゴチャゴチャしてたが、もう工事は終わっているとのこと。
GWの5月4~5日の清正公祭は、露店が多く立ち並び非常に賑わうという。
加藤清正の武運の強さから必勝悲願、築城技術の高さから建築関係の祈願など、
多くの人が訪れ、白金の清正さんとして親しまれている。
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最後に、山門から見た清正公堂を見る。
加藤清正所縁の寺⇒清正公寺

参考文献:訪ねてみたい東京のお寺
訪ねてみたい東京のお寺

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瑞聖寺(港区白金台) [江戸の風情]

地下鉄白金台駅から歩いて1,2分のところに瑞聖寺がある。
1670年に江戸で最初に創建された黄檗宗の寺で、江戸黄檗様仏殿が唯一現存する寺だ。
江戸時代は広い寺領、多くの堂宇や塔頭を持っていたが、明治以降は廃仏毀釈や火災、地震でその多くを失ってしまい、
かつて程の寺運はないが、白金の住宅の中に佇む仏殿は、何とも言えない存在感をかもし出している。
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現在の表門である冠木門。
この門も江戸から現存するもの。
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入母屋造浅瓦葺の鐘楼。
1885年(明治18年)の建立。梵鐘は戦時中の金属供給令によって供出、現在のものは昭和63年に造られたもの。
鐘楼の梵鐘ではないが、開山堂にあった半鐘がスイスの民俗博物館で発見されている。
東京に唯一現存する江戸黄檗様仏殿である大雄宝殿。
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仏殿の前にある白い石が敷き詰められたエリアは『月台』と呼ばれるもので、太陽や月の光を反射させて、内陣を明るくする為に照らす仕掛けである。
外観は黄檗様式の仏殿だが、内陣の両脇に畳を敷くなど、江戸独特の様式になっているのが特徴。
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本尊は釈迦如来像。脇に阿難(左)と迦葉(右)像を従えている。この二人は釈迦の十大弟子で、代表して釈迦二羅漢像として、祀られることがある。
内陣の左側の像は、黄檗宗開祖の隠元禅師と瑞聖寺開山の木庵禅師か?
右側には、山手七福神の布袋様。
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雲板と魚板。どちらも食事や時刻を知らせるのに使用された。
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高麗門の山門。
もとは裏門で、現在の目黒通りに面して立てられていたが、山門の位置に移築された。
江戸時代には、黄檗様式の独特な門が建っていたことだろう。
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通りから山門を見る。冠木門と高麗門、そして境内へ続く階段と大雄宝殿が、住宅の中に溶け込んでいる。
中華風をうまく和風にアレンジした、黄檗様式のちょっと厳つい風貌が好きだ。
京都の万福寺に行ったときは、心躍ったものである。
ただ、関東では物件数が少ないので、残念な限り。

参考文献:訪ねてみたい東京のお寺
訪ねてみたい東京のお寺

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妙円寺(港区白金台) [江戸の風情]

目黒駅より目黒通りを白金方面に10分程度歩くと、妙円寺へ下る道がある。
妙円寺は、山手七福神の福禄寿・寿老人を祀る。
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本堂。坂を下りると、妙見堂、本堂と並ぶ。
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妙見堂。
妙見大菩薩を安置している堂。妙見大菩薩は、北辰妙見大菩薩とも言われ、北極星を神格化したもの。
この像は伝教大師の作と言われ、足利尊氏の持仏であったものを、開基の滝本日忍が妙円寺に祀った。
滝本日忍の父は、室町幕府13代将軍義輝の家臣で、父を通じて義輝から拝領されたとのことだ。
昔から、白金の妙見さまと親しまれている。
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五百羅漢寺(目黒区下目黒) [江戸の風情]

五百羅漢寺。
江戸時代は1695年に開山した、本所深川にあった寺で、将軍綱吉、吉宗の庇護を得て堂宇が整い、繁栄していた。特に百観音が安置されていたさざゑ堂やや五百羅漢像が安置されていた本堂は非常に評判を呼び、連日多くの人が参拝に訪れたという。 しかし、幕末の安政の大地震で堂宇は倒壊、明治の廃仏毀釈で同寺は荒廃、明治42年に現在地に移転してきた。その後も、荒廃の状態は続き、仏像も幾つか流出する憂き目に会うが、戦後に本堂が建立、残った仏像が都の文化財に指定され、目黒の羅漢様として親しまれている。
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門前。近代的な外観で、江戸時代の名所としての面影はない。
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現在の羅漢堂。
コの字状に羅漢像を配置している。単調な配置で、ちょっと寂しい。
内部は撮影禁止なので、屋外から撮影。
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元は536体あったが、現存するのは305体。
開基の松雲禅師によって十数年かけて作られた。
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1720年に造られた庚申塔。
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昭和54年に建てられた本堂。
和と印のハイブリッドデザイン。この風変わりな様は、いかにも羅漢寺らしいところだ。
本堂は、丈六の釈迦如来の脇に、十大弟子、周囲に羅漢を配置している。これは霊鷲山での釈迦の説法を再現したものだという。
江戸時代には屈指の名所として繁栄した羅漢寺だが、現在はそれ程ではないにしろ、目黒の羅漢として親しまれている。ま、寺としてはこちらのほうが自然かもしれない。
とはいえ、食事処があったりと微妙に羅漢寺らしさは残っている。

参考文献:訪ねてみたい東京のお寺
訪ねてみたい東京のお寺

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海福寺(目黒区下目黒) [江戸の風情]

目黒不動の墓地から道なりに下っていくと、海福寺の墓地に入る。
寺の裏手から入ったが、山門から紹介していくこととする。
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門前には、永代橋落橋供養塔の宝篋印塔が2基ある。
写真を撮ったと思っていたが、中途半端なものが1枚あっただけ。その1枚も、急に姿を見せた野性のハクビシンを撮ったものだった.....
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山門は、朱色の四脚門。
元は新宿区上落合泰雲寺の山門であったが、明治初期に廃寺となり、海福寺に移築された。その際、宇和島藩の伊達家が購入して、寄進したとのこと。
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鐘楼。
梵鐘は1682年に鋳造されたもので、黄檗宗開祖隠元禅師の新鋳を祝した銘が刻まれている。裾の雲形は、黄檗宗風形式の珍しいものである。
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九層の石塔。
かつて武田信玄の館にあったと伝わる塔である。
江戸名所図会でも紹介されていたモノで、昔から寺の名物であった。
土屋氏が移したと言われていたようだが、土屋氏は天目山の戦いで戦死し、子供はしばらく寺に預けられていたので、武田家の館から塔などを持ち出すのは不可能だろう。
家康は、武田家旧臣を積極的に取り込んだり、関東に入る前は甲斐の領主でもあったので、その関係で移された可能性は無いともいえない。

土屋忠直の菩提寺⇒円覚寺
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本堂。黄檗宗っぽくない、普通の堂である。
海福寺は元は深川にあったが、明治43年に水害にあい、現在地に移ってきた。
黄檗宗独特の中国風な建物はなく、ちょっと寂しい感はあるが、山門や石塔など見所ありありだ。

参考文献:江戸・東京 石仏ウォーキング
江戸・東京 石仏ウォーキング
昔は建築物メインで見ていた寺社だが、都内の寺社は震災と戦災で古いものが少ない為、現存数が多い石仏に徐々に興味を抱くようになった。そのときに参考にと購入した1冊である。 地域ルート別に構成されているので、普段ルート参考にしている「切絵図・現代図で歩くもち歩き江戸東京散歩」に組み込みやすい。

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