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桂泉院(長野県伊那市) [寺/神社]

前に武田信玄の父、武田信虎の菩提寺として、甲斐の大泉寺の記事を書いたが、
長野県伊那市にも墓があり、高遠城とその周辺を探索した際に立ち寄った。

以前の記事
高遠城
大泉寺
細い道に不安を覚えたが、なんとか到着。
駐車場は結構広いです。

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まだ赤の156 2.0TSに乗っていた頃の訪問です。

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桂泉院の本堂。
元は高遠城内にあったが、江戸期にこちらに移された。
武田信虎は、息子の信玄に甲斐を追放されてから、今川氏に保護を受けていたが、
その今川氏も滅亡すると、移住地を転々としていたが、信玄の死後にこの高遠に身を寄せていたという。

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山門は四脚門。
信虎は甲斐に戻ることを望んで、武田勝頼に懇願したが叶わず、戻れたのは死後であった。

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位牌堂
織田軍の侵攻に対し、高遠城を守っていた信玄の五男仁科盛信の位牌が安置されている。
次々と武田家から離反していく中、織田軍を高遠で食い止めようと最後まで奮闘した武将だ。

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袴腰付鐘楼堂。
この鐘は、織田軍が開善寺の鐘を陣鐘として略奪し、高遠城攻めで使ったもの。
鐘には移動の際に引きずられた跡が残っているが、その跡をチェックするのを忘れてしまった。
鐘は落城後に、高遠城の法幢院曲輪に鐘を吊るして、敵味方の法要を営んだという。

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鐘楼堂は上がれるので、上がってみた。

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裏山にある武田信虎の墓。

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信虎の墓の後ろには、開山の内藤昌月の墓と歴代住職の無縫塔が並んでいる。
内藤昌月は、保科正俊の次男で、内藤家の養子となった人物。

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鐘楼の前に建つ、唐破風付き笠塔婆。
高遠藩士が建てた「塚原卜伝の碑」とのことだが、全く読めない。。。。
おそらく新当流か卜伝流の剣術を学んだ藩士が建てたのだろう。

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山本勘介桜
高遠城を信玄が落とした後に、山本勘助が再築城する際にここから眺めて、
縄張りを行ったと伝わっている。
説明板には「勘介」となっていたが、あまり気にしないことにする。

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ここからの高遠湖や連峰の眺めは非常にいいです。


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コメント 3

toshi

武田信虎の墓、こんなところにあるんですね。
息子に追放されて苦労したのかもしれませんね。
by toshi (2015-12-07 11:24) 

mamii

この建物に車が邪魔でしたね。
by mamii (2015-12-07 12:41) 

ガンビー

>toshiさん
追放後も信玄からは生活費は送られていたようです。
甲斐に戻りたくて、重要拠点である高遠を守っていた息子の信繁(信玄の弟)を頼って、
この地に来たみたいですね。

>mamiiさん
車、邪魔でしたか。
この頃、車を撮ることはあまりなかったのですが、
何故かここでは何枚も撮っていたので、載せてみました。

by ガンビー (2015-12-07 22:03) 

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