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建福寺(長野県伊那市) [寺/神社]

伊那の高遠。
武田信玄が領地としてからは、重要拠点と位置付け、武田一族が配されることになる土地である。
実際、織田信長の軍によって高遠城が落とされてから、瞬く間に甲斐を蹂躙されてしまったことから、
信玄の配置はさすがとしか言いようが無い。

その高遠の武田家の所縁の場所へ、ぶらり旅してみた。

まず最初に向ったのは、高遠の石工技術を目の当たりにすることができる建福寺。
武田勝頼の母、諏訪御料人の菩提寺でもある。

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門前の風景。
多くの石仏群が建ち並ぶ姿は、圧巻だ。
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西国三十三所観音や六地蔵など、50体以上もの石仏が堂の中に納められている。
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高遠は、江戸時代から石工が有名で、各地に出稼ぎに出向いてので、山梨や神奈川、静岡等の近辺に多くの作品が残っている。

境内に向う。

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山門は四脚門。

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本柱と控柱の貫部の途中にも、貫が設けられている。
構造的には意味はなく、単なる飾りだろうが、ちょっと面白い。
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経蔵。

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経蔵の向いにある謎の建物。
櫓までの高さが2m程度の小さい建物。
櫓は、煙出しの櫓とすれば、茶室だろうか。
扉の手前にある木片は、この建物の回縁部か。

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鐘楼堂。

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本堂。

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本堂は庫裏と玄関付きの廊下で連結している。

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本堂の前にある六地蔵の堂。

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右から諏訪御料人、保科正直、保科正光の墓。
勝頼は、1562~71年の間、高遠城主であったので、こちらを菩提寺としたようだ。
有名な人によくある複数の墓所だが、高野山の過去帳やここの位牌などから、こちらは信憑性が高い。
ただ、この墓がそれかどうかは、ちょっと疑問。
墓は後に供養墓として建てたものだと思う。

保科家は、正直が1600年に高遠城主となり、この建福寺が保科家の菩提寺となった。
正光の養子が、会津藩主保科正之である。

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本堂の大棟や破風部には保科家の家紋と、保科家が松平姓になってからの家紋が掲げられている。

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脇門。門の横は地蔵堂になっている。

いきなり見所の多い寺で、高遠の旅は良いスタートが切れたよ。
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