林泉寺(新潟県上越市) [寺/神社]
春日山城の山麓にある林泉寺は、越後の長尾家そして上杉家の菩提寺で、 上杉謙信が7歳のときに預けられた寺として有名である。 謙信は呼び戻されて元服する14歳までを、この林泉寺で過ごした。 春日山城へ行く際は、まずここに立ち寄りたい。 この味わいのある惣門は、春日山城の搦手門を移築されたものと伝わり、 春日山城の遺構としては、唯一の現存物件である。 色んな角度から見てみる。 | |
惣門に続いて、仁王門がある。 この門は、大正時代に再建されたもの。 惣門とは違う、迫力がある。 | |
仁王像と、天井の龍図。 | |
本堂。 本堂は、結構新しい。 | |
本堂には、上杉謙信が祀られている。 両脇には、四天王を従えている。後ろには十六羅漢像と道元禅師が祀られている。 本堂の裏山は墓地となっており、謙信の墓をはじめ、この地を治めた大名の墓がある。 参道は、遊歩道のような雰囲気である。 | |
参道を進んですぐにある、堀秀治の五輪塔。 高田藩初代藩主。 堀秀政の嫡子で、豊臣秀吉が亡くなる直前に、越前北ノ庄18万石から越後春日山30万石へ移封されてきた。 関ヶ原の合戦では東軍に付いた為、所領が安堵された。 | |
堀秀治墓の隣にあるのが、堀秀重の五輪塔。 堀秀治の祖父。 嫡子の秀政、孫の秀治と、秀治より先に亡くなり、秀治が亡くなって半年後に秀重は死去した。 五輪塔は、土塁で囲まれている。 石造りの透垣はよく見かけるが、土塁はあまり記憶がない。 | |
堀秀治・秀重墓の前を奥に進むと、秀治の父・秀政の五輪塔がある。 こちらも土塁で囲まれている。 秀政は、信長・秀吉に仕えた名将。秀吉の四国攻めの功績により、越後北ノ庄18万石が与えられた。 小田原攻めの陣中で、38歳という若さで死去してしまう。秀吉は、小田原の役の後には、関東を与えようと考えていたようだ。 | |
堀家の墓を進むと、上杉謙信の五輪塔(墓)がある。 2基の五輪塔と周辺に幾つもの無縫塔が立ち並んでいる。 こちらは供養塔で、遺骨は米沢の上杉廟所に移されている。 | |
謙信公墓から見て、参道を挟んで左側に川中島戦死者供養塔がある。 逆に右側に進むと、謙信の父・為景と祖父・能景の墓がある。 どちらの五輪塔も、風化による劣化でバランスが悪くなっている。 林泉寺を創建したのは、この能景である。 | |
榊原家の墓所。 中央が榊原政岑で、右が榊原政賢、左がご息女民。 政岑は榊原分家の次男で、大須賀家を継いでいたが、兄の早世、そして本家の養子となり、本家を継いだ。 しかし、吉原でのお遊びが過ぎて、将軍吉宗の怒りを買い、姫路藩から高田藩に転封させられた。 政賢は、最後の藩主政敬の父。 | |
川中島戦死者供養塔から円を描くように参道があり、反時計周りに進むと、先の榊原家墓所があり、その近くに松平綱賢の墓がある。 観音像が彫られている墓で、大名墓としては珍しい。大名墓はかなり見たつもりだが、大枠をくり抜いて、その中に仏像を彫り込まれたものは初めて見た。 綱賢は松平光長の嫡子で、その光長は結城秀康の孫。 綱賢は世継がいないまま亡くなったうえ、光長にも他に男子がいなかった為、世継争いである越後騒動が起ってしまった。 結局養子を取り、家は途絶えなかったが、光長は伊予松山へ転封、養子の宣富は津山藩主となった。 | |
松平光長の正室土佐の墓。 土佐は、毛利秀就(毛利輝元の長男)の娘。 | |
宝物館。 毘の軍旗は必見だよ。 | |