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三原城(広島県三原市) [城]

毛利元就の三男で、小早川家を継いだ小早川隆景が、三原の小島を繋いで築いた城郭。
毛利水軍を統率すべく、軍港の機能を持った城郭で、山陽部の水陸の要所として機能した。
隆景本人もこの城を非常に気に入っていたらしく、秀吉の四国、九州征伐の恩賞で筑前に転封したが、養子の秀秋に筑前を譲り、本人は三原に戻り、城郭の整備を行ったという。
小早川氏の移封後、福島正則、浅野氏の支城となった。元和の一国一城制により、本来であれば、破却になるはずであるが、名城を破却するのを惜しまれて、幕府から存城が認められた。
明治になってから、海軍の西海鎮守府が城内に仮設されたが、4年後呉に鎮守府が開設された後は、建物は順次取り壊されていき、鉄道山陽本線三原駅が本丸に開設され、名城の見る影も無くなっていった。

三原駅の構内にある三原城絵図。右は現在の三原駅周辺地図(白色部が海または水堀)。
本丸は鉄道で分断され、埋め立てによって、海岸線も離れていったので、かつての水城とか浮城と呼ばれた面影はこれっぽっちも無い。


山陽本線ガード下に残る本丸の石垣。
城跡の惨状を物語る1コマ。


ガード下を抜けると天守台の石垣と、コの字に3面のみ水堀が残る。
非常に大きい天守台で、さぞかし立派な天守閣だったんだろうって感じだが、天守閣は築かれていない。
二重櫓を3基配して、それぞれを多聞櫓で連結していた。
天守台の大きさは、江戸城に匹敵する。写真は北東から見たもの。

北西から見た天守台。
三原城らしいのは、この天守台の石垣ぐらいでしょうかね。

三原駅構内からしか入れない天守台。
天守台にはこの看板しかない、散歩エリア。
もうちょっと、史跡らしく整備して欲しい。
天守台は、水堀側(東西北)は石垣であるが、南側は土塁であった。

本丸(南側)から見た天守台。
左側奥に見える山には、毛利家の桜山城があった。
この城は、三原城に組み込まれ、甲の丸が置かれていたという。
小早川隆景が築いた名城は、見るも無残な姿になってしまっているが、多少なりとも整備が始まったようで、天守台の水堀の向岸の更地に三原城関連の施設を建設するらしい。
天守台に隅櫓と多聞櫓を復元し、現在更地になってるところに、小早川隆景関連の資料館を作ってはどうだろうか。
その資料館から見る天守台は、かなりいい絵になると思うのだが。

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