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広島城(広島県広島市) [城]

2007年は近年稀にみるクソ暑い夏でしたが、その暑い中、広島に帰省した。
最近は帰省すると、出来る限り、いろんなところを廻ることにしている。
今回は、毛利三本の矢巡りと題して、サンフレッチェな城巡りを行った。

広島城(鯉城)
広島城は、中国地方の太守である毛利輝元によって、太田川のデルタ地帯に築城された。
それまでの本拠地であった吉田郡山城は、山間部にあり、約120万石を治めるには手狭になってきていたことと、経済の拡張には適さないことから、海辺側に本拠地を移す運びになった。
それに加え、秀吉の都市計画(聚楽第や大阪城等)としての城に触発されたのも要因だろう。
毛利家の威信をかけて築いた広島城だが、完成まもなくして、関ヶ原の合戦が起り、西軍の総大将として担ぎ出された輝元は山口へ移封させられた。
その後に入った福島正則は、まだ不安定な情勢なため、さらに城を強化拡張したり、支城を築いていった。元和の武家諸法度により城の修築には幕府の許可が必要になったが、洪水で崩れた石垣を無断で修築(というより、幕府側の策とも言われている)したことにより、川中島へ改易、和歌山より浅野氏が入封し、以後幕末まで浅野氏の治世となる。


二の丸に復元された表御門と平櫓。
明治維新後、多くの建物が破却されたが、二の丸の建物は比較的残っていたが...
原爆により一瞬にして焼失した。
現在のものは平成3年に毛利時代のものを復元している。戦前の古写真と比較して異なる部分が多少あるのだが、戦前まで現存していたものは、江戸、明治期にかなり修改築が施されたものだからである。


表御門と同時に復元された、多聞櫓と太鼓櫓。
二の丸は方形で、本丸の南側に位置している。本丸の前衛的防御エリアという、本来の二の丸の存在というより、馬出しといったところ。
この本丸-二の丸の縄張り(設計)は、聚楽第を模したと言われている。秀吉の街づくりに感化されたのが見て取れる。


二の丸に残る、被爆したユーカリ。

二の丸から見た、本丸の石垣。
南側の石垣はこのように黒いのだが、これは原爆によって、焼きついたせいである。
広島城は、爆心地より北へ約1km付近。

本丸の大手門である中御門跡。
枡形虎口。
この門も戦前まで毛利期の古式な枡形門が現存していたが、原爆で焼失。


本丸跡地に、戦後建てられた護国神社。
広島の初詣では最も賑わう。
カープがシーズン前に必勝祈願をするのがココ。

五重五階の古風な天守閣(北側より撮影)。昭和33年に外観復元されたコンクリ天守。
本来は、東と南に三層の小天守を渡櫓で連結した連結式天守であった。
築城当時は、天守の高さこそ大阪城より低かったが、天守群としてみれば、最大であった。
広い本丸にポツンと天守閣のみが建っている姿は、どことなく寂しい。
戦前は国宝に指定されていたが、原爆の爆風で倒壊。倒壊後の木材は被災者の薪や小屋となり、残りは県が売り払い、塩を購入して、被災者に配ったという。

南小天守の天守台。
右奥に見える石垣が渡櫓のもの。

東小天守の天守台。
戦前は、東側の渡櫓の半分は残っていた。
2つの小天守は明治維新後、早々に破却された。
渡櫓の半分が残っていたのは、この渡櫓に天守の登城口があったからだろう。
現在の入り口は、観光用。


北東部にある崩れた石垣。
福島正則が、幕府から修築した石垣を破却するように命じられたとき、修築した場所ではなく、破却しても差し支えないここを破却したという。


東側の冠木御門跡。
虎口ではないため、防御的に疑問をもたれることが多い。


櫓跡が非常に多い。
実際櫓数は、日本最多であった。
石垣の低さを、堀の広さと櫓の数でカバーしたと言われるが、水害の多かったこの地域で、石垣を低くする意義がわからない。
ま、この辺りは地盤が弱いので、高石垣が築けなかったのはわかるが。

都市開発により、現在は本丸と二の丸だけとなってしまい、城跡としてはちょっと寂しい感がある。
二の丸の櫓や門が復元され、かなり様になってきたように、小天守を含め、天守閣周辺の整備を望む。
城内の明治以降の戦争遺跡(軍事施設跡)は、別途記事を書くこととする。

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