足利に出張する機会があったので、待ち合わせ時間より1時間早く到着するように出発し、その時間を使って、駅より15分くらのとこにある鑁阿寺(ばんなじ)を訪ねた。
ここは、元は足利氏館であり、その後に寺を立てられたせいか、中世の武士館の名残をみることができる。
また、国はじめ県、市の文化財の宝庫で見ごたえのある寺である。
が...敷地が広いこともあるのだが、堂宇が点々と配置されてるせいか、なんとなく寂しい感じを受けた。
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足利市駅出て、渡良瀬川を渡り、駅より15分程度で鑁阿寺に到着する。 見ての通り、3m程度の水堀と石垣、土塁で囲まれた、典型的な中世城館の形式である。 完全な方形で、ここまで現存しているのは珍しい。 奥に見えるのは山門前の橋。 |
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三間一戸の楼門と唐破風屋根付きの橋。 この組み合わせがなんとも重厚感だ。 楼門は、1564年に足利幕府の13代将軍義輝が再建したもの。 県指定文化財。
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本堂(大御堂)。 1196年に足利義兼(源頼朝の従兄弟)が建立した堂。 国重文。 |
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袴付きの鐘楼。 本堂に次いで建立された建造物。 国重文。
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国内最大の多宝塔。 現在のは、徳川幕府5代将軍綱吉の母、桂昌院の再建と言われている。 徳川家は、足利から分家した新田氏の後裔と称していたので、祖先発祥の地であるここに先祖菩提供養のため再建寄進した。 県指定文化財。 |
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中御堂(不動堂) 1592年の再修築のもの。 明治41年に国宝に指定されるまで、本堂と廊下で繋がっていたという。 何故、国宝に指定されると廊下部を取り外したのかわからない。 個人的に廊下や回廊で連結された建造物群が好きである。連結したシルエットは美しかったと思うんだが。 |
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中御堂の右横にある氏館時代から使われていたという井戸跡。 たぶんコレだと思う。 |
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経堂。 1407年に関東管領足利満兼により再建。 最近修繕して、きれいになっている。 説明板読むまで、最近復元したモノかと思ったくらいである。
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県文化財の御霊屋。 現在の建物は、徳川幕府11代将軍家斉の寄進により再建。 本殿に源氏の祖、拝殿に足利15代将軍像が祀られている。 昭和32年に元の位置から12間程北に移動した。 |
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本殿は、赤を基調とした極彩色の流造り。 |
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室町期創建の大酉堂。 元は足利尊氏の霊屋だったが、明治の皇国史観により、尊氏が逆賊扱いになってしまった為、尊氏木造を本坊に移し、寺伝来の大酉大権現を本尊とした。 |
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校倉造りの元宝庫。 白と朱のボーダー柄が非常に新鮮である。 現在は足利家伝来の大黒天を祀っており、大黒堂となっている。 元が宝物殿なため、窓が無く、祀られている大黒様も狭苦しく思ってるのではないかね。 |
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蛭子堂。 創建年代は不明。 開基の足利義兼の妻北条時子が祀られている。 安産にご利益があると言われて、昔から信仰されているという。 御霊屋~蛭子堂まで境内の北部に横一直線に並べられており、ちょっと味気ない。 この建造物群の前は広場になっており、ちょっと前に保育園の運動会がおこなわれた形跡が残っていた。 |
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薬医門の北門。 堀の外にあった12支院の千手院の門。 大正7年にここに移築した。 江戸期のもので、貫の幅が広いのと柱からの貫通部(木鼻部)が非常に長いのが印象的だ。 |
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四脚門の東門。 飾り気の無い武骨な四脚門である。 1433年に公文所奉行によって修築されたもの。 県文化財。 指が写ってしまった.... |
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四脚門の西門。 1432年に東門同様に公文所奉行によって修築されたもの。 県文化財。 |
鎌倉期から江戸期の貴重な建造物を多く擁し、そもそもが足利氏の館なので、中世城郭の特徴も持つ見ごたえのある寺である。近くには足利学校などの観光物件が多く、時間に余裕を持って観光することをオススメする。
どうでもいい事だが、変換泣かせな寺の名前である....